駄菓子屋さんと瞑想
ここに文章を書くのはすごく久しぶりです。
この間に、僕にはとても大きな変化があったので、それについて。
2023年7月。何年も続いた苦しい日々に、ようやく光が差した、そんな出来事がありました。
以前から関わらせていただいた地域の方が、駄菓子屋さんと子どもの居場所をミックスさせたサードプレイスを作ってくれたのです。
僕はボランティアとしてそこに参加させてもらうことができました。
正直、自分の仕事のできなさは知っていましたし、「役に立てないのでは」「邪魔なのでは」「幻滅されるのでは」そんな不安の中、恐る恐るの参加だったことを覚えています。
しかし、代表の方を含め、そこに参加される方は僕の苦手とする「評価の目」を持っていなかった。そんな場は現代(日本)社会において、なかなか出会えるものではありません。
評価の眼差しを受けることのない日々の中、僕に大きな変化がありました。自由と安心を感じられたのです。この監視社会に"順応"するため、擬態に多くのエネルギーを使ってきた自分、そして少なくともこの場では、それが必要ないという事実。
そんな中で僕の意識は、子どもの笑い声や蝉の声、空に浮かぶ雲や飛行機、大きな月、空気の匂いに向けられました。「向けた」のではなく、向けられたのです。それはほとんど自動的なことでした。
「空を見上げるのなんて何十年ぶりだろう」そんな風に感じたことを、今でも覚えています。
文章にしてしまえば、たったこれだけです。でも、この体験は、僕にとってあまりにも大きなものでした。
当時のFacebookには、「数年ぶりに毎日が楽しい」という短い文が、駄菓子屋さんで側転をする自分の写真とともに残っています。
しかし、8月末になり、駄菓子屋さんは予定通り一旦終了となりました。
しばらくの間はその余韻とともに過ごすことができていましたが、少しずつ自分が以前の状態に戻っていくのを感じていました。四六時中考え、擬態にエネルギーを割く日々です。
苦しいというより、「疲れた」の方が近い、そんな状態に逆戻りして半年、今度は瞑想に辿り着きました。
初回の瞑想は、鮮烈な体験でした。一人で10分間目をつぶっただけ。なるべく頭を空っぽにするよう心がけながら。ただそれだけです。
それなのに、生まれて初めて、他者を介さずに僕は自由と安心を手にしました。
正直なことをいうと、臨床心理学の一つの技法として、瞑想の存在は意識していました。でも、ある意味避けてきました。「今に集中するって、今が苦しいんだから余計苦しくなるじゃん」この疑問が強かったのです。
今考えるとそれは、新しいことを恐れるゆえの言い訳だったのでしょう。やってもいないのに抵抗を感じる時、僕たちはしばしばこの罠にかかっています。
ここで駄菓子屋さんの話に戻ります。
上に書いたような抵抗を、なぜ今回に限って乗り越えたのか。駄菓子屋さんに受け入れてもらえた感覚があったからだと思うのです。
そしてなぜ、初めての瞑想であそこまで鮮烈な体験をすることができたのか。
これは最近になってようやく言葉になりました。
「駄菓子屋さんはまさに瞑想だった」のです。
評価されないから自分自身への評価もしなくてよい。頭を空っぽにした状態で、音や空気や空に集中することができる。まさに瞑想で目指すことです。
駄菓子屋さんと瞑想は僕にとって同じ経験でした。ただ一つ違うとすれば、瞑想は一人でもできるという点です。
苦しい真っ只中、以前であれば孤独や不安に悶え苦しんだであろうその時間を使って、すぐに瞑想をすることができます。
では、もう他者を必要としなくなったかといえば、逆です。以前よりも、他者との「今」を喜び、楽しみ、感謝することができるようになりました。
だから、瞑想と出会ってから始まった2024年夏の駄菓子屋さんも、昨年よりもずっと豊かに過ごすことができました。
ここからの話は、多くの方に拒否反応を起こさせてしまうかもしれません。でも、できれば聞いてください。
他者との関係に疲れた方、四六時中考え事をしている方、悩みのある方、是非瞑想を続けてみてください。
「重大なことが起きていて、今は瞑想どころじゃない!」そんな時こそ瞑想のタイミングです。
評価を手放し、10分間目をつぶって、「考えていることに気づいたら、考えることをやめる」それだけです。「考えてはいけない時間」ではなく、「考えなくてよい時間」です。
「私はまだ大丈夫だから…」「過去にやって向かなかったから…」「なんだかあやしい…」当たり前の感情です。そう感じるだろうなと、僕も思います。
でも、どうか試してほしいです。これを読んでくれるであろう方の中に、「どうしても試してみてほしい」と僕が感じている方が何人かいます。
僕は宗教もやっていないし、瞑想を普及させることでお金が儲かるわけでもありません。
欲があるとすれば、僕が大切に思っている方たちにもっと楽に過ごしてほしいのです。恩返しの欲求が強いかもしれません。
端的に書くはずが、ずいぶん長文になってしまいました。最後まで読んでいただきありがとうございました。
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