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話をしなくてもいいひと


コミュニケーションを取るというのは相手を理解するための行動だけど、人生でそんなの仕事以外は必要ないというひとに出会った。
そのひとの座右の銘が、正確ではないかもしれないが、



話をしなくてもわかる奴にはわかる
話をしてもわからない奴にはわからない
よって話はしなくてよい


というもので、最後に偉い人の名前が書かれていた気がするけど、忘れた。

書いてみると、はああとため息が出るような感覚と共に、なんだか笑っちゃうけど、当時は一緒にいる上で、なんでもっとちゃんと話してくれないのかなあとか、なんだか通じないなあ、なんで怒っているのかなあということが多くて、こちらが気を使ったり、なにか悪いことしたんだろうかと考えてしまったりと、とても辛かった。そして、きちんと話をすればいいではないかと提案したら、この座右の銘を紹介されたのである。
この人の話が通じない感はこれが元になっているのか、と唖然としたし、ああもうこのひととは心安らかに一緒に過ごしていくことは無理かもと諦めがついた。ホントなんなのこの前時代的な感じ。エスパーじゃないっつーの。言ってくれなきゃわかんないよ。
なんというか、相手に俺の言いたいことわかるだろ?と無言で強要するその感じ、そして相手の気持ちや意見は聞こうとしない感じが傲慢極まりない。

彼の場合「いつでも自分を、自分だけを待って、理解して、許して、受け入れてほしい」という強い気持ちの裏返しだったんだろうと今ではわかる。それがおそらくは子供の頃の両親との関係が原因となっているだろうことも。

努力して彼がよい気分でいられるように、こうなのかな。いやこっちかなと常に気を揉む。
そういうわたしといることで彼は力を得ていたのだろう。
常に愛を奪われているとその泉はいつか枯渇する。だって神様じゃないもん。
彼は、彼の好きなわたしだから好きなのだ、わたしのことが好きなわけではないのだと涙が出た。いつからこんなふうになってしまったのだろう。でもきっと尽くしている自分にわたしも酔っていたのだと思う。わたしもわたしを愛していただけで、本当は彼のことなど見ていなかったのかもしれない。

しばらくして会ったときに、彼が新しく付き合っている女性に「そんなことじゃ、前の彼女みたいになるぞと教えてあげた」となぜか誇らしげに言った。
ふとそこに、陰で泣いている、彼にとって素直で聞き分けが良くて、話をしない良い子のわたしが見えて、切なくなる。

それは筆の丸文字フォントで小さな掌サイズの木のイーゼルに書かれて、いかにも慎ましい感じで置かれていた。
あの彼の座右の銘、まだ机の横に飾ってあるのかしら。




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