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公教育をになう教師が持つべきセンス

 今週は出張が2回。「人権教育の実践報告会」と「学力向上について」のの研修に参加した。それぞれの研修を受講した感想をnoteに記しておきたい気分になったので、思うままに文章にしてみた。

 人権教育の実践報告会は、発表者が担任している生徒1人を”A”として取り上げて、「”A”と教師のかかわり」「”A”と家庭のつながり」「”A”と仲間のつながり」「”A”と地域のつながり」などから見えてくる「”A”の成長」について、実践を報告していく。

 いわゆる”個”のリアルに迫る報告会である。

 僕が聞いた報告では、家庭環境が複雑で自分に素直になれない”A”が取り上げられた。

 ”A”はいっぱい吐き出したいことがあるのに、素直な自分を出せないでいた。積極的にもなれず、友だちの輪が広がりにくい状況だった…。そこから1年間。教師、家庭、地域、クラスの仲間など、さまざまなつながりが”A”を変えていく。最終的に”A”は、「自分のクラスで自分の家の環境を語りたい、不安や悩みがあることを語りたい」と言って、クラス全員がいる前で自分のことを語り、その想いに共感した仲間たちが”A”に歩みより、”A”を中心にしたコミュニティーの輪が広がっていった。

 1年間の”A”の成長の軌跡が、担任の先生によって具体的に語られたとても素敵な時間と空間だった。

 とてつもなく社会を反映した具体性のある毎日が学校では繰り広げられている。

 これを見つめ続けることを、僕たち教師はわすれてはいけない。

 学力向上の研修会は、この1年間の学力向上について市内各校から報告があった。今年のテーマは「書く力」であった。「書く力」をどう捉え、どう実践したか。

 ・黒板の文字を正確に写す作業

 ・教師の説明やクラスの仲間の意見を聞いてしっかりとメモをとる作業

 ・自分が学んだことをまとめて、振り返りを書く作業

 ・自分の意見をまとめる作業

 ・何かのテーマについて長文を書く作業

 ・パソコンの入力もありにして自分の意見を記していく作業

各校それぞれの視点で実践が報告された。

報告会のあとは、「書く力」について、グループディスカッションが行われた。

僕が所属していたグループでは「そもそも何のための書く力なのか?」ということがテーマに上がる。

 僕たち現場の教師は、学習指導要領にのっとって行事や授業を行う。これが何を意味するかというと、「〇〇力」ありきのスタートであること。だから、そもそもなぜ「〇〇力」を問うているのかを、現場はあまり深く考えない(忙しすぎて余裕がないのが現実…)。僕はずっとそこに疑問を感じている…。

 だからこの議論は、僕はとても面白かった。

「書く力」ってなんで必要なんだろうか。

・教師が黒板を写させる作業って、何の力をつけようとしているの?

・なんで自分の意見を書く必要があるの?

・振り返りの作業って何で必要なのかな?

などなど、実践報告されたものを一つ一つ検証した。議論が成熟してくると、これらが社会に出てどのように活かされるのかについてみんなで考えた。

これがまた一段と面白い。

・意外と大人になると「書く」こと少ないよね…。どんな時に書くんだ…。学校の社会の中では、新たな知識を定着させるために書くんだろうけど、一般社会に出ると読書しても、僕たち書かないもんね。

・ほとんどの人は上からの指示で動く社会で生きていくことになるでしょう。そうなると、書くことって、さまざまな指示に対して、行動を早く出来るように整理する手段になるかもね。

・いや…、副業、複業が認められる社会。これからは一人ひとりが主体的に働ける環境がいっぱいできるんじゃないかな。だから、自分について書いて整理することは、自分の生き方を見つめる手段。書いて整理して、多様な生き方ができるようになる。

・日本社会、グローバルな社会に生きる一員として、市民性を持ってもらうために、多様な意見を聞き、自分の生きる軸をつくるには書く必要があるかもね。

・ていうか「書く」っていうのは、結局は手段でしかないよね。書ければ良いっていうものでもない。でも僕たちは今年1年間は「書ける」という結果に重点を置いてるよな。何のために書くかをはっきりさせないと。そうしないと取り組みの意味が生まれてこない。

まとめにさしかかって、ふと、こんなことを言った先生がいた。

「俺たち教師ってさ、社会に出てからも学校社会で働いているわけじゃん。学校で通用する成長の仕方は知ってるけど、一般社会で通用する成長の仕方は知らない人も多いわけじゃん。だからやっぱり教師の常識は社会の非常識だったりする。大きく間違ったことをしているわけではないけど、もしかしたら少し視点を変えれば、同じ取り組みでも子どもたちへの効果は変わるのかもなー」

 今年1年間のまとめになるはずが、まだまだ「書く力」への探究は終わらなさそうであった。

 最近とても思う。「○○力」という言葉が独り歩きをしていると。「〇〇力をつけるための手段」が独り歩きしていると。

 もしかしたら、「書く力」自体が時代遅れ、そもそも「書く時代」ではないという議論もあるかもしれない。

 子どもたちの未来を担っている教育現場は、「〇〇力」が社会に出てどう活きるかについて、もっと議論しなくちゃいけない。この議論は役所の官僚たちがするのではなく、現場の教師が主体的にして、常に問うていく必要があると思う。

 2つの研修に参加して感じたこと。

 やっぱり公教育の可能性は無限大に広がっているということ。

 公教育の現場は社会の縮図である。だから「個」の生活がリアルに見える。僕たちは「今この瞬間」何が必要かを、「今この瞬間」リアルタイムで感じとることができる。

 だからこそ、「〇〇力はなぜ必要か?」「〇〇力は社会に出てどのように活かされるのか?」を社会のリアルから考えることができる

「手段」はそれからいくらでもチャレンジできるし、失敗すれば修正すればいい。

公教育をになう教師に求められるセンスは、

「リアルを感じ続けること」

「〇〇力が何で必要か、〇〇力がどう活きるかを考え続けること」

「それに基づいた行動を起こし続けること」

この3つ。

そうすれば、きっと…

現場からのボトムアップで、

公教育は変化し続けられる。

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