「どんな子どもに育ってほしい?」の恐ろしさ


息子が生後半年くらいのとき、ある講座で言われた言葉が喉に刺さった小骨のように残っている。
その場ではみんな、優しい子、元気な子、頑張る子、、みたいに答えていたように思う。
私はね、なんて答えたら良いのか分からず「け、健康… ?」と曖昧に答えてしまった。

私が戸惑ったのは、そんなこと一度も考えたことがなかったから。
そしてそのときに初めて“理想の子ども”が存在し、その理想に向かって子どもを作っていくのが親の役目だと考える人たちが(きっと少なくない割合で)存在していると知った。


今思えば、健康ですら別にこちらが決めることではないように思う。
健康を願い過ぎると、健康でなくなったときが不幸せになってしまうから。


話は飛ぶが、大学生のとき1番頻繁に交流していた友だちがいた。
ある日、私は彼女の態度が気に入らなかったから「それ、やめて。私はそれ嫌い」と(一応アイメッセージで)言った。
すると彼女は「そう。でもあなたが嫌いでも私には関係ないよ」と返したので、私はびっくり!

あまりにも衝撃的な返答で何日もそのことが頭を逡巡した。そして気づいた。
「私は彼女の行動をコントロールしようとした。でもたしかに彼女の人生とは無関係な野次でしかないな」


また、当時の恋人(現在の夫)に思い切って不満を伝えたときがあった。しかし、返ってきたのは「ごめんね。あなたも大事なことには間違いないけど、友達も大事なんだ」

これにも、とても驚いた。
私はすぐには2人の感覚が分からなかった。



私は好きな人の理想に近づきたいと思っていて、理想に近づいてあげることが愛だと思っていた。
だから、私のことが好きというなら私の理想を目指すはずとも思ってた。

しかしそれは誤解だったと、ようやく気づいた。


それからは、誰かの理想になろうとすることも自分の理想を誰かに求めることもやめた。
自分の理想を叶えてくれるのは自分しかいないと思えるようになった。


だから私には“理想の子ども”がいない。
“理想の夫”も“理想の夫婦”も存在しない。
あるのは“私にとって理想の母親像”だけだ。


子どもは親が一生懸命こねて作る粘土細工ではない。
親がどう育ってほしいか語るよりも、目の前の子がどうありたいのかどう育ちたいのか気にかけていきたい。

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