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210111-0113 「海抜0dB」

いろんな騒動と余波を垣間見ては、疑問を持つ事自体も許されないのか、と奇妙な気分になる。

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ある方の意見や意思が他の人の認識と違った場合に、「終わった」「失望した」「許せない」等、やけに感情的に叩かれたり揶揄されたりする事がある。
この時、どういうわけか議題の内容自体へのフォーカスがブレてる事が多いと感じるんだけど、叩く人や揶揄する人はその点には気付いてるんだろうか。また、そのような人は自身の認識について正しいという論拠を、自身の理解と言葉で説明できるんだろうか。

「意見や意思」を「疑問」に置き換えても然り。明確な意見や意思表示まで至らなくても、疑問を持ってるだけでも意見が飛び交う事があるが、やっぱり議題の内容へのフォーカスは弱く感じる。
意見、意思、疑問へ反応するのは自由とは思うけど(感情的な言葉尻のものは個人的にすごく不快だが)、何でそこまで喰らうんだろう、と。

また、有名な方の場合にその影響力を指摘される事がままあるが、その設定はどこから生まれてるんだろう。受け取り手の捉え方次第とはならないんだろうか。
もしならない場合、受け取り手自身の意思や心はどこに置かれてるんだろう。なぜ、自身の意思や心まで有名な方に預けてるんだろう。従いなさい、等と言われてるわけでもないのに。

すごく不思議に感じる。

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最近またアーティストに対して、失望した・もう見ない・聴かない、というのを見かけた。この手の話は大小問わずちょくちょく見かける。

で、アーティストの作品と思考が常にワンセットだとして、受け取り手もワンセットで常に受け止めなければならないんだろうか。その時に受け取り手自身の思考と違う場合、作品自体も手放さなければならないんだろうか。
(場合によってはわざわざアーティストにその旨を表明する人もいる)

そういった気持ちにしこりが残るような感覚は多少シミュレーションできるんだけど(自分自身にはない感覚なので、あくまでシミュレーションできる、というだけ)、切り分けられないものなんだろうか。

本当に不思議で仕方がない。

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ひとつ前の日記にも書いた、随分前に出会った自分の大好きな言葉
「天秤の片側に乗って対象についてどうのこうの言うより、天秤から降りるところから始める」
は自分の考え方の一部になっている。自分はこの視点で、変な力を入れずに物事を見たいと常々思っている。

イメージとしては…例えばちょっと外側にいる感じ。大通りから一つ二つ外れた路地を歩いてる感じ。もうちょっと物語っぽい絵も浮かんでるんだけど、まあそのような世界観。

そんな見方をしていると、いろんな事に疑問が湧く。とりわけ、制限、定義、断定、習慣などに基づいたものがあまりに多く、自分もがんじがらめになってると気付く。
特にここ4〜5年は顕著。とりわけ色濃くはっきりしてきてるのはここ1年。

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支点を0位置として、前後左右上下を行き来しては呑んで呑まれる。浮かぶ灰汁を掬うかは次の段取り。
海抜0dBでは日々の重力を反射する。

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ところで話は飛んで、本来組み合わさらないものが創作や芸術の上ではアリになるのは面白い。意味や文脈を飛び越える。違和感は味。
自分は言葉でそういう組み立てをする事が多い。曲名ではあまり生かせてないかも。

日記っぽくない日記になったところで締め。

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電子音楽や諸々を創作しつつ、反射された記録(活動、思考、日記など)を概ねランダムに残しています。もし何かの拍子に気に入っていただけたら幸いです。

嬉し! :D
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小野寺隼平: 電子音楽家, 劇伴製作 etc. ▼ https://linktr.ee/asohgi ▼ noteでは日記、お知らせ、作品解説あたりを書き連ねています