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亡き人の供養をする意義『死では終わらない物語を生きる』

※お寺から2021年のお彼岸法要案内で、お檀家様へ送ったお便り「亡くなった人のご供養をする意義について」をnoteにも載せておきます。僧侶の私が大切にしているこの想いが誰かの心に届きますように(祈)

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 私たちは、どうして亡くなった人の供養をするのでしょうか。「亡くなった人への感謝として」「遺された人の役目だから」「亡き人に今の自分の姿を報告するために」「アレコレ理由をつけるより、当たり前に〝ただ〟したいからする」など。いろんな人がいるでしょう。私は僧侶として、お檀家様が、一周忌、三回忌、お彼岸やお盆にお寺やお墓にお参りする姿を見ていて、亡き人の供養をする方は、死では終わらない物語を生きていると感じています。

 普段の私たちは生活の中で、なんとなく「生きているうちが自分の人生のすべて、この身体の寿命が尽きたら、人生はお終いだ」と思いがちであるように感じます。しかし、 もしそうだとしても、亡くなった人の供養をしているときは違います。私たちは死者と共に生きている。 供養をしているとき、遺された縁者を通して亡くなった人は生きている。 人は決して死んでも終わりじゃない。これが死では終わらない物語を生きているという意味です。

 そして、いずれは自分も死ぬのです。そんなとき、死では終わらない物語を生きている人は、死では終わらない物語を生きているわけですから、不安がなく安楽に死を迎えられる。そんな風に思います。いや、死というのはそんなに簡単に受け入れられるものではない。なんて言われそうですが、供養とは、永遠の命を生きる実践であり、究極的にヒト 一人の人生を超越する行いです

 まあ仮にそうだとして、お子さんがいて供養をしてくれるお家の方はいいでしょう。しかし、今は少子化で、男性は4人に一人、女性は5人に一人が生涯未婚の時代。現実的に供養をしてくれる人がいなかったら、「死では終わらない物語を生きていれば、自分も安楽に死を迎えられる」なんて悠長なことは言っていられません。「後継ぎのいない人間は、やはり死んだらお終い」と思う方もおみえになりそうですが、いやいや、そんなことはありません。

 2500年前に生まれた仏教の開祖お釈迦様は、29歳のときに出身地の王国と親と嫁と子供を捨てて出家しています。その後ブッダとなり、悟りを求めて共に修行する弟子に対しては、生殖を禁じました。そんな宗教が2500年以上続いています。子孫が繁栄していないお釈迦様の物語は、お釈迦様亡き後も全く終わってはいません。むしろ現在進行形で今も活き活きと生き続けています。

 この生き続けているとはお釈迦様と、勿論、私たちのことです。仏教を信仰する私たち、僧侶の私と、亡くなって成仏した人の供養をしながら、うちのお寺を庇護するお檀家様。更に広げるなら、お釈迦様の教えである正伝の仏法を、日々大事に遺すことに寄与しながら生きる世界中の仏教徒を指します。つまり、私たちは、跡継ぎの有無に関わらず、血縁を超越した存在として、お釈迦様の死では終わらない物語を共に生きる仏教徒だということです。

 目に見える話にするとこうです。例えば、お寺に永代位牌を祀っているお檀家様なら、朝のお勤めで50年間、亡き人の戒名が御命日には毎年読み挙げられ供養されます。跡継ぎのない方でも私と生前から交流のあるお檀家様なら、私が思い出して手を合わします。当然、私が死んでも、お寺で供養が続くよう弟子を輩出する。これも私の重要な役目です。

 要するに、亡き人の供養をするお寺のお檀家様は、ご子息の有無に関わらず、お寺において死では終わらない物語を生き続けているといえます。死後のことはわかりませんが、もしかすると私が皆様の供養をする姿を、あの世からみられるかもしれません。

 昨今は、遺された人に迷惑をかけたくないから、俺が死んだら供養はしなくていい。そんな風に無宗教で直葬の最期を選択する人がおみえになるようです。彼らはどうしてそういう送り方を望むのでしょう。僧侶が供養の大切さ、仏教の素晴らしさを伝道しきれていないのも原因のひとつだと思いますが同時に、私たちが、自分の命はこの身体の寿命のみだと信じて疑わないのも原因にあるのではないでしょうか。

 死後に遺すものは何も無い。自分の命は今生だけで、死んだらお終い。すべて「無」になると信じていれば、供養をする必要もない。この結論に行き着くのは自然。無宗教になるのも仕方がありません。とはいえ、実際にその選択をするのはいかがなものでしょう。

 誰しも生老病死で四苦八苦する未来が大なり小なり待っていると想像すれば、死んだらお終いの考え方では、運良く健康長寿で苦しまず逝ける人以外は、老い先に明るい希望はもてず、人生の最期が一様に不幸になってしまう感が否めません

 死では終わらない物語を生きる人も状況こそ同じですが、心持ちは、違います。身体が衰えて思い通りにならなければ「俺の人生、どう生きようが俺の勝手だ」と、ついワガママになるのが私たち。ですが、自分が死んだら遺された人に供養してもらわないと困る。そう思っていれば、晩年に投げやりになる気持ちもグンと戒められるでしょう。無事にあの世で成仏するには、生前から周囲にいい種を蒔いておかなければと思うのも道理です。それに、もし生前から篤く仏教を敬えば、死ぬ前に悟りを覚知して、老いも病も死もひとつの現象として、思い通りにならないあらゆる困難を穏やかに受け入れられるかもしれません。

 今年のお彼岸のお参りの際には、大事な人の供養をしながら死では終わらない仏教徒としてのお姿を、どうか、ご先祖様にご報告して頂けたらと思います。

※感想をくれた方、毎度ご協力頂いている皆様へ感謝。合掌


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