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マキシマム ザ ホルモン

もしかしたら単なる雑草かもしれないけど、それでもこうして芽を出して息吹く小さな緑に勇気をもらう自分がいる。
小さなことに目を向けることと、小さなことにこだわらないことの狭間で相変わらず右往左往する自分もここにいる。

感覚的な物差し

このところ、身体の調子が悪かった。
特に病気というわけではないが、なんとなく身体が重ダルい。それは単に太ってきたせいなのか、女性特有のホルモンのせいでムチムチなのかは定かではなかった。
ただ"何かが明らかに詰まっている、滞っている"
そういう感覚的なレベルの話だ。

わたしは時々無性に走りたくなるときがある。
いつもはランニングを健康のためにしなくては!と思っても、しないのに。
そういうとき、私の中では『ちょっとだけ黄色信号』だと認識している。
そしてこういうときほど『セルフケア』を真っ先にしなくてはならないシグナルであることも知っていた。

とにかく肩甲骨から背中、足全体がパンパンに張っていて、日頃のマッサージやストレッチでは全然ダメだった。
特に疲れるほどのことは何もないはずなのに、
見えない小さな何かが、わたしの肩越しに静かにのし掛かっているようだった。
だから身体は「走りたい」と物申してきたのだ。
身体をほぐすつもりで、揺すりながら走る。
重力を感じる。骨にへばりついた筋肉と脂肪の束がゆらゆらと剥がれ落ちていく。
20分も走れば大量のツンとした臭いの汗が吹き出し、その汗はとてもしょっぱかった。
少しだけ気持ちが晴れた。
翌朝も起きて走りたい。そう思う自分がいた。

『いつも』と比べてしまうのは、あまりに『いつも』の比重が大きいからなのだろうか。
◼️いつもよりちょっと元気ないね
◼️いつもよりちょっと変だね
◼️いつもよりちょっと○○だね

そういうとき【自分の物差し】を持つことの不自由さや、そこに縛られていることの自分の疎ましさをまざまざと外部から見せつけられている気がする。それは同時に【他者の存在】を痛烈に感じる感覚にも繋がる。

誰かといるということ

世界が大変な折に触れれば、「自分」という存在と誰か・何かという「自分以外」の存在を同時進行で考える一つのキッカケには少なからずなると思う。
自分だけが大変なわけではないことは十分理解はできるから、そこと比較して「誰か」の方がもっと大変だと想像し、そうすることで自分を奮い立たせたり、または誰かを思いやることもできるのだとも思っている。
けれど、そのためには、どうしたって自分力(体力気力)が備わっている必要がある。
だからこそ強がりも我慢強くなろうとする自分も出てくる。
泣きごとなんていっちゃいけない。
強くならなきゃ。
ひとりで永遠に続きそうになる堂々巡り。
そんな諸刃の剣をひっぺがしてくれるのもまた、
誰かなのだ。

わたしが『いつもより』元気がなければ
そのサインに気がついて笑わせようとしてくれる人がいる。 
本当に、本当に、ありがたいことだ。
その人もまた、もしかしたら私には抱えきれないほどの何かを背負った人なのかもしれないのに。
しかし私もまた、そういう誰かのサインを受け取ろうとすればするほど、誰かを思いやりたがる自分と、自分の放つサインへの小ささや幼さや浅はかさとの葛藤をすることになり、それが反って自身への自信喪失を助長する羽目になる。
小さなことで、また私は思い悩む。


小さなことにズームイン!しすぎるのは、公衆衛生上あまり良くはない。そうとは知っていながらも。

視点を反らす

今朝も走って幾分身体は軽快さを取り戻しつつあるものの、心の中にへばりついた何かはまだ停滞の様子。モヤモヤは完全には晴れなかった。

そんな中でアメリカに暮らす友人とSkypeでチャットすることになって久しぶりに話しをした。
互いの近況報告から、政治の話、好きなミュージシャンの話、色んな話をした。
色々あーだこーだ話をしているうちに、
小さな何かが脳裏から離れていることに気づく。

ま、結局それでもまた何かは、あらゆる瞬間に私の脳裏に小さな隙間から入り込んでは、私を揺るがすのだけど、
それでも段々とズームアウトしていく感覚が自分の中にも少しずつ出てきた。

小さなことに気がつくことと
小さなことに縛られ過ぎないこと
その両方の自分なりの取り扱い方法を再度見直す必要がありそうだ。

「それ、ホルモンのせいだよ」

思いきって、今のなんとなくのモヤモヤを打ち明けると、彼女はケロッと笑ってそう言った。

そんな見も蓋もない一言で解決させてしまっていいんだろうか?
そう思う一方で、確かに何かがあった訳でもないのにこんなに(しかも勝手に落ち込む=自爆する)自分の理由が上手く説明できないでいたから、
その着地点には一理あるな、とも思い感心した。それだけでフワッと軽くなる。

「あとはさー、そういうとき、とにかく絶対笑っちゃうような、とっておきの変顔を用意して相手を笑わせるかな。といっても中々笑わないから、笑うまで永遠にやり続けるとかするかも」
ユーモアって、こういうときホント超絶重要!!
すぐにでも変顔の練習を始めよう。

でもって言い訳と良い訳。
要は、やっぱり取り扱い方次第ってことなんだろうな、きっと。

流れるのは汗と涙とサムシング

少し東洋医学の話をしよう。
東洋医学では、「気血水」(き・けつ・すい)が人間の身体では循環していると考えられている。それぞれに滞りがあると以下の状態になる。

○気滞(きたい)=気の巡りの悪さ。
→イライラ、喉や胸の詰まり感

○瘀血(おけつ)=血の巡りの悪さ
→肩凝り、お腹の張りなど

○水滞(すいたい)=水の巡りの悪さ
→むくみ

奇しくも、今のわたしは全てが滞っていた。
(もちろん自覚あり)

巡りを良くする方法はそれぞれあって
気の巡り=深呼吸
血の巡り=肩回しや凝りをほぐすこと
水の巡り=汗を出す
などがあるんだけど、
それを一気に取り込めるのが、私にとっては「走る」行為なのだ。歩くのでは不十分な状態。

というわけで、もうしばらく「走る」ことはしようと思う。
(逆に、そんな気力すらないときは無理してはいけない。そんなときは、ひたすら積極的冬眠生活をオススメする)

誰かと比べることが悪いことだとは思わない。
けれど、やっぱり自分を労ることを抜きにして誰かを労ることもできないのだと思うと、
まずは自分という小さな存在から始めるしかないんだと思う。

自分でできるケアによって流した汗と
人に施されるケアによって流した涙。

これまでも何度も同じようなシチュエーションを繰り返してきたけれど、
わたしがこれまでに流してきた幾つかのサムシングで手にしたサムシングがある。
それは、"強がらないでいられる居場所、つまりはわたしがわたしでいられること"

強くも弱くもあるわたしを、面倒くさい人間たる私をくるんでくれる柔らかい毛布みたいな。
誰かの存在が、こうして自分の生を肯定されることは、私の歴史上あまりなかった事だ。
その人の存在に私は心から感謝している。
そして願わくばわたしも誰かにとって、そういう存在でありたい。

時も流れる

『もしかしたら単なる雑草かもしれないけど、それでもこうして芽を出して息吹く小さな緑に勇気をもらう自分がいる。
小さなことに目を向けることと、些細なことにこだわらないことの狭間で相変わらず右往左往する自分もここにいる』


冒頭の私と末尾の私。
似ているようでいて、感覚はまるで○で違う。
ぐるぐる廻っても、そこは螺旋階段。

相変わらず一歩ずつ、がよく似合う。
はー、牛歩のごとく。
いろいろあるけど、ホルモン万歳。

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