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2-14. 簡単にいえば、私は、いつの間にか恋に落ちていた。

まさかそのまま5ヶ月もジョージのアパートに居座ることになるとは、思ってもみなかった。
(あとで聞いたところによると、ジョージは私が居着くことを半ば予想し、半ば期待していたらしい。けれど「そのうち嫌になって出て行くだろうなとも思っていた」そうだ。)

話を戻そう。

ホステルを追い出されたあとジョージのアパートメントに一時避難した私は、結局そのままその日はそこに泊まることになった。近場のホステルに空きがなかったことと、プライバシーのない生活に私が疲れていたせいもある。そして何より、仕事がない身にとって宿泊費が浮くのはたとえ数日だけでもありがたかった。

とりあえず3日間だけは好意に甘えよう、と思っていたのが一週間になり、二週間になり、気づけば住む場所を探す意味はあまりなくなってしまっていた。

居たいだけいればいい、とジョージは気楽に住まいを提供してくれ、32歳の旅人と57歳の退職者の奇妙な同棲生活が始まった。
何件かの不採用と、試用期間という名のタダ働きののち、ようやく私は近所のカフェで仕事を見つけたが、その頃にはもうジョージと離れて暮らすことは考えられなくなっていた。

ジョージとの関係が、いつからどのようにそんな風になったのかはわからない。ジョージもわかっていなかっただろうと思う。とにかく、ジョージが私に何かを与えてくれ、私はそれを感謝して受け取る。その感謝に気を良くしたジョージが、さらに私を喜ばせようと別の何かを与える。その繰り返しの中で、お互いの存在が自然と生活の中に組み込まれて行った。

アーリーリタイヤして2年になるジョージの生活はいたってシンプルで、ほぼ毎日同じことの繰り返しだった。朝起きて近所の公園で軽いエクササイズをしたあと、朝食をとってから外出。ボートで遊んだり図書館や美術館に行ったりして数時間を過ごしたあと、家に帰って来て遅めの昼食。昼食後シエスタをする習慣はよほどのことがない限り変えることはなく、夕方起きると再び近所の公園に出かけて読書をしたり、スーパーで買い物をしたり、テレビを見たりして過ごす。夜はだいたいスポーツやミステリードラマを見て、たまにライブ演奏のあるバーに繰り出したり、過去の結婚でもうけた子供と会ったりしていた。

私はといえば、シフトのない時間はだいたいジョージと一緒に過ごしていた。ジョージは私にシドニーを案内するのが楽しくてたまらないらしく、毎週のように「What’s On Sydney」をチェックしては、市内のそこここで行われるイベントを手帳にメモしていた。彼は一切私にお金を遣わせなかった。

私が初めての給料を手にした時も、彼は頑として家賃を受け取らなかった。
「そのお金は、君がこれから先旅する時の資金にすればいい。僕はつましく暮らしてるがお金に困ってはいないし、君がここにいることで発生する費用なんて、微々たる食費くらいのものだから、気にしなくていいよ」

「そして、その対価としてセックスをしなきゃいけない、とも思わないで欲しい」
ジョージはきっぱりと言った。
「君がそうしたいなら僕はいつでも友達に戻れるし、ベッドで一緒に寝るのが嫌なら、ソファやボートで寝たっていい。君が本当はしたくないのに、義務感で僕の求めに応じることはしないで欲しい。そういうつもりで君をここに置いてるんじゃない。君がオーストラリアでの自由を、君の人生の中できっと大きな意味を持つようになるこの旅を、最大限満喫できるように僕なりにしてあげられることを提案しているだけだ」

「じゃああなたは代わりに何を得ているの?」
自分は飲まないインスタント味噌汁を私のために買って来てくれたジョージに、私はたまりかねて聞いた。
「うーん。君と一緒にいられることかなぁ。別に、一人が嫌なわけじゃないけどね。僕はシドニーが好きだし、君がシドニーを好きになってくれるのを見るのが嬉しいんだよ。うん、そうだね。気の合う人と一緒にボートに行ったり、食事をしたり、コンサートに行ったりして、シドニーのいい時間を一緒に経験できて、ラッキーだと思うよ」

そしてその言葉通り、ジョージは私にシドニーのさまざまな楽しみ方を教えてくれた。

ボンダイビーチ。
シドニーオペラハウスのコンサート。
メッシーナのジェラート。
アートギャラリーニューサウスウェールズのナイトイベント。
センテニアルパークでのバーベキュー。
ワトソンズベイのフィッシュ&チップス。
クーリンガイ国立公園のブッシュウォーク。

私たちは手を繋いでギャラリーを巡り、マンリービーチで人生初のボディボードに乗り、ロックスでビールジョッキを空け、ダーリンハーバーのサルサナイトでぎこちないステップを踏み、ロイヤルナショナルパークで蚊に刺されながらキャンプをした。

私はジョージと元彼女が写っている写真を見つけて嫉妬し、アパートに頻出するゴキブリに悲鳴をあげ、日焼け止めを塗り忘れてひどい口唇ヘルペスを発症し、張り切って作ったお好み焼きを見事に焦がした。

「君はそう思ってないかもしれないけど、君はとても愛すべき人間なんだよ」
そう言ってジョージはよく私の額にキスをした。彼は毎朝起きると私の枕元に温かいお茶を運んでくれ、立ち仕事の私の脚をマッサージし、一緒にクロスワードを解き、料理を作ってくれた。

毎日が楽しく、毎日が新鮮で、毎日が満たされていた。
だからこそ、私は怖かった。
繰り返し頭の中に湧き上がってくる “その質問”を訊ねることで、その生活が終わってしまうことが怖かった。
もう二度とこの場所へ、この時間へ、この関係へ戻って来ることができなくなることが怖かった。

でもそれは、いつか来ることだった。
いつか訪ねなければならない質問だった。


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