2-17. アボカドトーストと恋バナ
5月の上旬、ジョージはしばらく一人旅をすると言って家を空けており、私は数日間の一人暮らしを満喫することができた。
最初の夜こそ寂しさを感じたものの、突如として始まった同棲生活から解放されて私はどこかせいせいしていた。広々としたベッドで身体を思い切り伸ばしたり、好きなテレビ番組を選んだりといった些細な自由が貴重なものだとは、同棲して初めて知ったことだ。
旅から戻ってきたレイチェルと会ったのは、ジョージが旅行に出て3日目のことだった。しばらく東南アジアをあちこち旅していた彼女から、またシドニーに戻ってきたという連絡を受けて、私たちはブランチをとることになった。
私にとってレイチェルは、ジョージ以外にシドニーでできた初めての友達だった。彼女と出会ったのは図書館のポエトリーリーディングワークショップ。不思議な磁力のある子だな、というのが第一印象だった。滑らかな英語を話したが、時折単語の選び方や発音にフランス風の癖が混じるのがとてもチャーミングだった。いつも思うことだが、フランス人とイタリア人は生まれながらにして性的魅力のアドバンテージを少なからず得ている。
ワークショップでペアを組まされた私たちは、そのあとコーヒーを飲みに行き、そこから仲良くなった。お互いシドニーに着いたばかりのバックパッカーとして情報交換をするうちに、年代やバックグラウンドだけでなく、感性や価値観が似ていることに気づいたのだ。
彼女は7年務めた仕事を辞めて、次の仕事を見つけるまでの移行期間に旅行しようと思い立ってオーストラリアに来たらしい。
「フランス人は長くバケーションを取ると思われているけど、実際はそうでもないのよ」と言っていた(バケーションの"長さ"の定義について、日本の例を持ち出して議論するのはやめておいた)。
人当たりは良いが少しシニカルで、自立しているけれど他人を気づかえる彼女に好感を抱くのは難しくなかった。彼女にあって私にない部分はおそらく、他人に対する恐怖心のなさだった。他人が自分と一緒にいて楽しいと、どうして不安なく思えるのだろう? 他人に笑顔で屈託なく話しかける術を、彼女はいつどこで身につけて来たのだろう?
よく晴れた朝11時、私たちはボンダイビーチを望むカフェで落ち合った。旅の間にレイチェルは少し日焼けしたようだった。165cmほどのすらりとした身体つきに、シンプルなリネンの青いシャツと白いコットンのパンツがとてもよく似合っている。足元はヒールのないサンダルだった。
アボカドトーストとサラダのブランチを食べながら、私たちはそれぞれの今後の旅の計画を話し合った。ジョージとの成り行きを報告するのは自然な流れだった。
「だから、潮時かなと思って」
まっすぐに伸びたレイチェルの細い足と、カラフルに彩られたペディキュアを見ながら私は努めて明るく聞こえるように言った。
「じゃあ、それで終わり?」
レイチェルは直接的な質問をした。
「うん」
私は力なく、皿にこびりついた卵の黄身を見つめた。
「だってこのまま私が彼と一緒にいても、未来がないもの」
「それはそうだし、Miyaの選択を私は尊重するけど」
柔らかなブロンドの髪を耳にかけながらレイチェルは言った。小さな水色の石をはめ込んだピアスが日光を受けて光った。
「でも、なんかその人、Miyaにとってとても大事な人のような気がする。本当にそんな形で幕を引いてしまっていいの?」
「そうだね」
私は認めた。
「だから、こんなに苦しいんだと思う。今までこんなに誰かと深く関係を築いたことってなかったもの」
ジョージと関係を結ぶ前に、自分がどれほど孤独を感じていたかをぶちまけてしまいたい衝動に駆られたが、それには触れないことにした。体育会のような青空の下、温かなデカフェソイラテを楽しんでいる彼女の目の前で、大根役者のようにさめざめと泣き崩れることはしたくなかった。私のトーンが沈んだのが伝わったのだろう。レイチェルは話題を変えた。
「いつメルボルンに行くの?」
「決めてない。でも暖かくなってからがいいから、あと数週間後かな」
「向こうでどこか泊まる当てはあるの?また星を眺めて恋に落ちた相手の家に転がりこむつもり?」
レイチェルは冗談めかして言った。私も笑った。
「それもいいけど、今回はちゃんとバックパッカーをやろうと思う」
レイチェルは呆れたように肩をすくめた。
「日本人らしい考え方ね!!『ちゃんとした』バックパッカーって何? ホステルに泊まって夜中まで飲んだくれて、そこで目があった人とそのまま寝ちゃって、気づいたら一緒に旅をするようになってる、とか?」
自分で自分の言ったことに笑うと、彼女は続けた。
「もし『ちゃんとした』バックパッカーってものがあるんだとしたら、それはどれだけ自分の心に素直に従えたか、ってことよ。別にバックパッカーに型があるわけじゃないし、優劣があるわけでもない。あなたがやっているワーキングホリデーって、ホリデーでしょう? 好きなことをすればいいじゃない。そのための時間でしょ」
オーバル型のサングラスの向こうから一気に言うと、レイチェルは綺麗な歯並びをのぞかせた。
「そうだね」
それしか私には言えなかった。彼女は全く正しい。人生をTo Doリストで考えてしまっている自分が恥ずかしい気分だった。
「もちろん、その真面目なところは素晴らしいと思うよ。でもバックパッカーをちゃんとやろうと心に決めるなんて、それこそバックパッカーらしくないよ」
「確かに」
私も笑った。アボカドの上に乗っていたピンクペッパーが、舌の上に残ってひりひりしていたので水を飲む。
「そっちはどうなの? 旅の途中で面白いことはあった?」
図らずも、今度は私が彼女の急所を衝いてしまったようだった。レイチェルは一瞬、前衛的なインスタレーションの置かれた部屋に入ってしまったような表情を浮かべて首を振った。
「……何て言ったらいいんだろう」
デカフェソイラテをもう一口飲むと、彼女は肩をすくめ、息を吐いて少しだけ上半身を前に乗り出した。サングラスの奥の大きな目が透けて見えた。
「一目惚れって信じる?」
「それは、ホステルに泊まって夜中まで飲んだくれて、そこで目があった人とそのまま寝ちゃって、気づいたら一緒に旅をするようになってた、ってこと?」
片眉を上げながら話す癖がついたのは、私が英語に慣れたせいかもしれない。
(Photo by Ben Kolde on Unsplash)
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