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2-18. 掴まれて落とされて振り回される

あるところに、女の子と男の子がいた。
女の子は世界を旅している途中、男の子は世界を旅した後国に帰る途中だった。
二人はたまたま同じホステルに泊まっていた。クラビのとあるバックパッカー、海水でごわごわになった髪を無造作にまとめた20代30代の若者がふくらんだバックパックを背負ってチェックインし、シンハービールやラオカオを呷り、タトゥーを入れた手でギターを弾いたりジェンガに興じたりするような、子供と大人の合間にいる人間がいっとき泊まる宿だった。

その日は雨で、バーに出かけるのが面倒になった宿泊客たちはラウンジで90年代のB級映画を見ながらシナリオのずさんさを酷評し合っていた。ギターと酔っ払った歌声がそこに加わり、うろ覚えの歌詞をさまざまな国の訛りで合唱するカラオケへと変わっていった。

レイチェルもその中にいた。映画をこき下ろすことはレイチェルの特技だったが、カラオケはやや苦手だった。騒がしいパーティからうまく抜け出す口実と、まだ早い夜の残りの過ごし方を逡巡していたその時、同じような戸惑いを目に浮かべながらビールを口に運んでいる青年と目が合った。

「お互いほっとしてるのがわかったの。偶然同じバスを乗り逃がしてしまった人同士みたいに」

困ったような微笑みをやや皮肉っぽい笑いに変え、彼はレイチェルに話しかけてきた。B級映画でも最後まで見れないのは残念な気がするんだけど、他のみんなはそうじゃないみたいだね。確かに、エンディングが私の予想通りかどうかだけでも知りたかったわ。どんな結末を予想してたの? 話しているうちに、二人は同じ映画が好きで同じ映画が嫌いなことがわかった。そのままテラスに出てビールを飲みながら話をした。そろそろ眠ろうかと気づいたのは空が少し明るみを帯びてきた頃だった。

「そこから一緒にタイをいろいろ回ったの。2週間くらいかな、すごく楽しかった。こんなに気が合う人、一緒にいて楽な人っているんだなってびっくりしたわ。遠慮も気まずさも、苛立ちも失望もなかった。ずっとワクワクしてて、ずっと笑ってた。今まで何人かと恋愛してきたけれど、それまでなかったくらい何もかもが自然だった。……でも」

“でも”。どうしていつも私たちのストーリーには”But”がついてしまうのだろう?

恋をすることは幸せなことだという。しかしレイチェルとパブロ(彼はスペイン人だった)の場合、その幸せは別れの悲しみと表裏をなすものだった。

「とても楽しい2週間だった。でもそれで終わり。彼は国に帰って仕事を見つけるんだと言ってたわ。今も連絡は取り合ってるけど、未来はないと思う」

スペインとフランス。隣国ではあるが、それぞれが住む都市は電車で6時間ほど離れている。

「でも、好きなんでしょう? 続けたいと思わないの?」

このご時世、遠距離恋愛なんて珍しくもなんともない。でも私に訊かれるまでもなく、それはレイチェルが自分自身と——そしておそらく彼女の頭の中のパブロに対しても——既に100回くらい問いかけた質問だったのだろう。

「そうね、距離は多分そこまで本質的な問題じゃないわ」

レイチェルはサングラスをかけたまま青空を仰いだ。薄く血管の透けた首筋と顎のラインが美しい。

「私はたぶん、あなたと正反対の問題を抱えているのかも」

レイチェルはどこかシニカルに、どこか茶化して言った。

「正反対?」

「ジョージとあなたは、同じライフステージにいない。それが彼と離れる決断をした理由でしょう?」

私は頷いた。子供が欲しい私と、子供が欲しくない彼。四半世紀先の未来を生きているジョージは、その年齢分の賢さと経験を持って、私とこれからの人生を一緒に過ごさないと決めたのだ。

「私の場合は逆ね。彼は私より12歳年下だったの」

嵐に吹き飛ばされてしまった植木鉢を見るような表情で、レイチェルは”Twelve”にアクセントを置いた。

「12歳差!」

なんとコメントして良いか分からず、私はただその数字を繰り返した。日本語で言う「ひとまわり」年下の男の子——まだ20代前半だろう。26歳上の男性と同棲している身で妙な話ではあるが、私にとって10歳以上年の若い異性と付き合うことは想像できなかった。

「彼はその年にしては大人びてたの。子供っぽさを感じることなんて、旅の間は全然なかったわ」

彼は22歳で、レイチェルは34歳だった。お互い相手の年齢を20代後半だと見積もったのは、出会った時の血中アルコール度数のせいか、希望的観測だったのか。それとも旅が私たちの”本当の”年齢——魂のみずみずしさとのびやかさ——を露わにするからだろうか?

「でも彼の年齢を最初に知っていたら、あんな風に恋はしなかっただろうなと思う」

自嘲的に肩をすくめたレイチェルに、私は思わず身を乗り出していた。

「でももしかしたら、それが本当に欲しかったものなんじゃない?」
レイチェルは一瞬はっとしたように表情を止めたが、それを少し笑顔に変えて言った。

「それは私に言ってるの? それとも自分に?」

今度は私が言葉を止める番だった。26歳年上の男性と恋をすることが、私が本当に欲しかったもの? 
斜めがけにしたアジア風のサコッシュからハンカチを取り出し、レイチェルは軽く鼻をかんだ。

「バカだなって思うわ。私まだ、どこかで期待を捨てきれてない」

レイチェルがさっき上を向いていたのは、涙が出そうになっていたからだということに私はやっと気づいた。

「わかってるんだ。お互い大都市に住んでいて、探せば恋愛相手はすぐに見つかる。向こうはまだ恋愛を楽しみたい年頃だし、私はそろそろ結婚して子供が欲しい。彼と一緒になろうと思ったら、どちらかが仕事を辞めてどちらかの都市に移住しなければいけないけど、お互いの国の言葉は喋れない。たった2週間の恋のために、人生なんか賭けられないよ。たとえそれが、どんなに楽しかったとしても」

年齢、距離、文化、そんな障壁を乗り越えた愛の物語に私たちは憧れるし、それが本物の愛情の証だと信じ込みたい願望はある。けれど、おそらくそれらの美しいストーリーの裏には、そうはならなかった何百のストーリーがあるのだろう。

私たちは——人間は——どうしてこうも、弱くてだらしなくてどうしようもない生き物なのだろう? 恋に掴まれて落とされて振り回されたあげくに、くしゃくしゃになって、それでもそこに何か意味を見出そうとしている。

「でも、それだけ好きになれる人に出会えたことでも、幸せなんじゃない?」

少しでも何か彼女の痛みを和らげたくて、私はなんとかポジティブな面を探そうとした。
レイチェルは視線を落とし、綺麗な歯並びを見せた。

「そうね。ありがとう。大切な思い出ができて、良かった。それに、もしこれが本当に続くべき関係なんだとしたらきっと続くし、そうじゃないなら、そうじゃなかったってことなんだと思ってる」

「うん、そうだよきっと」

それ以上何と言っていいか分からず、私は手持ち無沙汰にカップの底に残る泡だけになってしまったソイラテをすすった。こういう時、まともな恋愛経験のない自分の浅さにがっかりしてしまう。

「Miyaは」

レイチェルは少し居住まいを正した。

「あなたはまだ、それだけ好きになれる人とまだ後しばらく一緒にいられるんでしょう?」

私は白とベージュの混ざり合った泡から視線を上げた。5月の抜けるような空から吹く風が、レイチェルの美しいブロンドの髪を揺らした。

「どうしたいの?」

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