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猫の思い出と懺悔

我が家はこれまで、犬1・猫1・猫2・猫3・犬2、と飼ってきた。
犬1と猫3・犬2は時期がかぶっていない。猫3のみがオス。
そして現在いるのは、うしろ3匹だけ。
今回書き記したいと思ったのは、昨年亡くなった猫1のはなしだ。

彼女との出会いは20年前。小学生の弟が帰り道の公園で拾ってきたらしい。帰宅してすぐ、目に入った見慣れない段ボールに首をひねっていた私に、よく見てごらん、と母が笑った。黒い布の隅に動く小さな生き物が彼女だった。

父方の実家で犬を、母方の実家で猫を飼っていたこともあり、動物は小さいころから好きだった。しかし父が、家の中で動物を飼うことに反対していた。妹が喘息持ちだったこともあるし、毛が落ちるのが気になるとか、そんな理由だった気がする。当時すでに飼っていた犬1は、子犬の時こそ家に上げていたが、ある程度大きくなってからは玄関まで、と決められていた。
そこにやってきた仔猫。生後ひと月にも満たないくらいの小ささだ。かわいそうだと泣く弟を、父は無下にできなかった。譲渡という選択肢がまったく出なかったのは、もともと母が猫好きだったせいもある。
かくして家族が増えた。

未開封の牛乳パックに登頂するようなおちびさんは、やがて気位の高いお嬢様になった。
彼女は何故か私に懐くときがあった。生理中と冬の夜だ。血の匂いに心配してくれたのと、寒かっただけだろうが、母に若干嫉妬されるくらいにはくっついてきて、少しの優越感を覚えた。構い倒しすぎることもなく、怒ることもないちょうどよい距離感を保てていたのだと思う。

彼女を迎えてから数年後。我が家は引っ越しをした。環境の変化になかなか慣れなかった彼女は、いつの間にか私の部屋を拠点にしだした。押し入れか箪笥の上か。気分がよかったり寒かったりすると布団に潜ったりもしてきた。時折抱っこもせがまれた。クッションになることは光栄だった。

推定12歳を迎えたころだっただろうか。箪笥の上でがたがたと音がした。残念なことに誰一人仲良くならなかった猫同士での喧嘩かと思えば、どうやら違ったらしい。しばらくして鳴きながら下りてきたのは彼女だけだった。
それから数日後、またがたがたと同じ音がした。覗いてみると、彼女の全身が痙攣していた。口から泡を吐き、止まってしばらくするとふらふらと歩きだす。慌てて下ろしてやると、餌に直行した。生命の危機を感じたようだ。
歳が歳なのでそういうこともあるだろうという判断を母がしたので、とりあえず様子を見ることにした。
数日後、私の隣にいるときに痙攣が始まった。それまで静かに寝ていた体が震えだし、腰に激痛が走る。おそらく近くにあるものを噛んで体を固定させようとしたのであろう。引きはがして布団を噛ませてしばらくすると、またふらふらと食事をしに行った。
ここでさすがにこのままではまずかろうと、動物病院に行くことにした。そのあいだにもう一度痙攣が起きたので、今度は素早く布団を噛ませ、その様子を動画におさめることに成功した。ヒトの子供の痙攣の様子を撮影しておくと医者に説明しやすい、とツイッターで見たからだ。しかしこれは、無口な獣医の助けになったのかわからなかった。
結局、腎臓系の病で老猫にはよくある症状ということで、通院と飲み薬でしのぐしかない、と診断された。クレートに入れるのも一苦労。自転車で移動中も鳴き続けるような外出嫌いの彼女にとっては、苦行でしかなかっただろう。それでも、なにもせずにはいられなかった。

痙攣の後遺症なのか、彼女の足腰は徐々に弱くなっていく。箪笥への踏み台にしていた場所に布を張り、登れないようにした。やがて押し入れの上の段にすら登れなくなり、私のベッドに入り浸る回数が増えた。
当時使っていたソファーベッドがそこそこ古くなり、買い替えることにしたとき、貧乏性の私が次に選んだのは、床に直置きできるタイプの安いものだった。これが結果的にはとてもいい選択となり、徐々に弱っていった彼女でもつかえる高さだったため、見事な万年床が完成した。

そこから数年間、通院と薬で誤魔化し続けても、老いは止められない。ほんの数センチの段差にすら苦労するようになった彼女の稼働時間は、じわじわと減っていった。完全になくなったとはいえなかった痙攣のたびに、少しずつできないことが増えていく。あるとき、ついに布団に上れなくなった。壁伝いにふんばっても、あと一歩のところで倒れてしまう。鳴き声で訴えられて迎えに行くと満足そうで、こんなときなのに喜んでいる自分がいた。

やがて、彼女は目が見えなくなった。見た目が変わらなかったので、痴呆との違いに気付くまで少し時間がかかったが、視線が合わなくなっていった。引っ越してから10年近く経ち、すっかり慣れた家のためか、えさの場所などはなんとなくわかるらしい。とはいえ、足腰も弱った状態ではトイレすらままならない。しかし彼女自身が動きたがっていたので、ケージに入れることはしなかった。動きづらいと嫌がるのでおむつもできず、結果、私の部屋と、となりの台所全体にペットシーツを敷き詰めることになった。
はじめは敷き方があまくて各所が水浸しになったり、漏れに気付かず踏んづけたりと苦労した。夜中に起きだして用を足した彼女が、立てなくなって大声で助けを求めるのが日課になった。ここにきて、これが介護であるということをあらためて認識した。

正直に言えばつらかった。毎夜起こされるのも、逆に起こされなくなるんじゃないかと毎日心配するのも。それでも、1日でも長く生きてくれればいいと思った。

あるときから、急に彼女の動きが悪くなった。それまで食事量だけはほとんど変わらなかったのに、どの餌にも反応しなくなった。
秒読みだと分かった。
それでもあらがって、シリンジで流動食と水を与えた。当然のようにはじめは抵抗したが、少しずつ慣れてくれて、嫌だと顔を背けられるまでは続けることにした。
だからその夜も、同じように水を与えた。

夜中だった。もう、彼女は自力では立てなくて、ずっと布団で寝かせていた。隣で寝ていた私がギリギリ聞こえるくらいのか細い声がして、水かな、と起きだして。気配に母も起きてきて、二人がかりで水を飲ませた。
手元が狂った。
彼女がむせだした。もう水を飲みこむ力もなかった。
けほけほとせき込む彼女を布団に連れて帰った。私は眠かった。多少の音でも眠れてしまうくらいに。

起きた時、腕枕の先にいた彼女の眼は開いていた。でも体が温かかった気がして、私はそのまま起きて朝食を終えた。
彼女の様子を見に行った母が私を呼んだ。
彼女の体は、冷たくはなかったけれど、かたくなっていた。目を閉じさせることもできないくらいに。
その日は私の休日だったので、日を選んだのかもね、と父と母は言った。お疲れ様、と彼女に、そして家族がそれぞれに言い合った。
パジャマのまま、玄関で葬儀屋に彼女が入った箱を渡して、終わりにした。車を見送ることもしなかったし、荼毘にふされたと連絡があっても墓地にはいかなかった。行かないの?と母に尋ねられたとき、お別れは充分したからいい、と返した。先に旅立った犬1のときは、出張中で帰ってきたときにはすでに荼毘にふされたあとだったので墓参りをしたが、今回は違うから、と。
でも本当は違う。合わせる顔がないだけだ。

私がとどめを刺したのだ。ただ黙って抱いたままでいれば、もう少し静かに送れたはずだった。最期の最後で苦しめたのは明らかに私のミスだ。それをずっと後悔している。

明日起きたら、一周忌を迎える。

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