β-414 せいぜんせつ
基本的には"善"、人間とはね。
と孟子さんは唱えていたとされる。
確かに、"善"のこころはあるのかもしれない、だれしも少なくともどこかに。
しかし、だからって"悪"を行わないではない。
憐み、羞恥、謙遜、思慮分別、こういったものを備えてはいるけれども、自己都合に基づいて解釈し、一般社会の道義から外れてしまうものもある、"善"は先天的に備わっていると孔子さんは説いてはいるけれど、その対象や感覚などを曲解していると、あんまりよろしくないのかなという認識でもいるのもまた事実。
このところ、これ見よがしに「性善説に基づいて・・・」という構文を見聞するなかで、「ほんとに"性善説"とはなんなのか知ってるのかな、かと言って自分もよう知らんなあ・・・」と思うようになって、軽く調べてみたという経緯。
恣意的に"礼"や"徳"を積むのはよくはないけれど、やっぱり"礼"や"徳"がないことには、"善"に基づいて暮らせてないのかなという薄い解釈を思い浮かべた。
"礼"についてみると、奥深いけど、奥深すぎるし、それに対する理解度はどの程度かも未知数という・・・。
哲学って奥深い、知識として覚えてしまう現代においては、あんまり哲学のことに関して触れる時間ってのはそうないのかもしれない。
でも、改めて考えると、興味のある分野ではあるんだなと、もちろんどれだけ突き詰めても、正解に辿り着けない領域なので、迂闊に呟けない部分でもあるけれど、触れる機会というのは設けたほうがいいのかなと感じるあした・の・β<ベータ>でした。
ちなみに。
「性悪説」は「性善説」の対義語ではありません。
ここでいう"悪"とは「人間って弱い存在だよね」という意であって、「悪事を・・・罪を・・・」ということではない。
弱い存在である人間がなす行為(これを"偽"という、偽物ということではない)を善と捉えている荀子さんではあるけれど、最終的には性善説同様、教育という後天的な努力によって礼を正していくというものと説かれている。
問題は、この"教育"とやらが果たして礼を正し、善を知り、行為をもって、行動できるのか、発言できるのか、ということなんだろうなあ。
ふわっとしているけれど、なんとなくそうなんじゃないかな。
という、最近の事案。