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#9.漫画「SLAM DUNK」がバイブルだったバスケ少年は、如何にして映画『THE FIRST SLAM DUNK』の作画監督になったか 〜またはアしやの異常な愛情〜

先日のバスケ女子日本代表の大活躍の興奮も醒め遣らぬうちに、いよいよ今週から次はバスケ男子日本代表の参戦する試合、アジアカップが始まります!
明日22日の対グアム戦はすでにチケットを取ってあるので、今から本当に楽しみです!

そしてそして、私がブログの更新をうかうかして遅くなっているうちに、いよいよ映画『THE FIRST SLAM DUNK』のBlu-ray・DVDいわゆる円盤の発売が目前に迫ってきました!!もう一週間切りましたね、まさにカウントダウンです!
楽しみ〜!&このブログは発売日までにはゴールに辿り着かないだろうな…と思っております。悪しからず…




中学校での恩師


学生時代の先生。担任の先生や、部活の顧問の先生、得意だった科目の担当の先生、厳しい生活指導の先生…などなど。
人生では実に様々な先生との出会いがあります。中でも特に印象深かったり、自分にとってかけがえのない学びをくれた先生に対して、敬意を込めて「恩師」と呼ぶことがあります。
先生との出会いにあまり恵まれず、学校の先生はみんな嫌いだった、と言う方も中にはいらっしゃるでしょうが、逆に私はこれまでの人生で多くの「恩師」と呼べる先生と出会い、その教えを請うことができました。
幼稚園・小・中・高・大学、どの時代を取っても、良い先生ばかりに恵まれたなあ、と今になって思います。
そう言う意味では、私の人生、特に子供の頃から大学卒業までは、かなり恵まれていたのかも知れませんね。


「SLAMDUNK」でも、ミッチーにとっての安西先生(安西先生は湘北全員にとって大恩師ですが)、陵南魚住にとっての田岡監督、全国の猛者・豊玉の南・岸本たちにとっての北野監督…
彼らのバスケ人生を強く形作った恩師であり、名将であった先生たちが数々登場します。
この歳になると、もううっかりすると監督たちの方に感情移入して「SLAMDUNK」を読んでしまう時がありますからね。自分が田岡茂一よりも年上になってしまったことに気づいた時は、ある意味衝撃でした。笑


今回は、中学でスラムダンクに憧れてバスケ部に入部した私が出会った、バスケットボールと同じくらい大きな、もう一つの人生を左右する出会いについて語ります。
それは、その後の人生の恩師とも言える、中学時代の担任の先生との出会いです。この方なくしては、今の芦谷は居なかったと言っても過言ではありません。


終生のライバルを育てた名将・ハシT


中学も2年生に上がる頃、クラス替えがあり、担任の先生も同時に変わりました。
新しく担任になったその先生は、1年生の頃は別のクラスの担任で、科目は国語の専科の先生だったので勿論面識はありましたが、1年生の時の第一印象としては背が高く(バレー部の顧問の先生でした)、どこか飄々としていて、あまり感情や心のうちの読めない、しかしクレバーな印象のある先生でした。

スラムダンクのキャラクターに例えれば一番近いのは、最強山王工業を率いる堂本五郎監督その人です。今思えば、見た目のシュッとしたイメージもそっくり。
堂本監督は短髪ですが、髪を伸ばしてチエコスポーツの店長くらいにして、更に堂本監督にメガネを掛けて貰えばほぼ同じです。笑

表向きは沈着冷静でクレバー、しかし裡には選手(生徒)に対する絶対の信頼と、熱い指導やバスケ(教育)に賭ける想いを秘めている点でも、非常に共通点を感じます。

そんな紳士的だけど熱血な部分もある、新しい担任の先生が、地元の恩師・ハシヅメ先生でした。
私たちは当時から愛称で、ハシヅメTeacher略して「ハシT」、と呼んでいたので、このブログでも僭越ながら以下「ハシT」と呼ばせていただきます。


ハシTが私たちの担任になったのは2年生からです。
以前のブログで少しだけ紹介した、幼稚園の頃からずっと一緒の幼馴染、「ダイスケ」と久々に同じクラスになったのも、この中学2年の時からでした。ダイスケら地元の友人たち登場回はこちら…↓↓

ハシTは専科は国語の先生だったので、勉強では国語が大得意だった私はすぐに先生に懐きました。色々と面白い、ユニークな勉強や課題も出してくれて、時には私の得意な絵を描くことも組み合わせられるような、様々な取り組みにも参加させてくれました。
先生のお陰もあって、あまり自分の口から言うのは憚られますが成績も優秀で、3年間いわゆる「優等生」として過ごすことができました。(ホントだよ!?)

そんなハシTですが、実は裏で画策していた目論見がありました。
それは、私の幼稚園の頃からの幼なじみで友達の「ダイスケ」についてです。彼は以前の紹介でも述べたように「ガキ大将」と言えるような、存在感のある人物でしたが、小学校卒業前の高学年の頃には、少し先生方が手を焼くような子どもでした。
しかし、小学校の担任だった先生も、中学1年から彼を請け負ったハシTも、恐らくダイスケの秘めるポテンシャルは見抜いていたんだと思います。
その持っているエネルギーを、勉強に向かわせて、問題児から「天才」へ育て上げようとしたのです。
そしてその計画を完成させるために、中学2年生で、ずっと幼なじみだった私を同じクラスにぶつけ、ダイスケと競わせる形を取ったのです。

以前のブログで、烏滸がましくも私とダイスケが「終生のライバル」と呼ばれていた、なんてことを書きました。ファンの方には申し訳ないですが、「SLAMDUNK」でわかりやすく例えると、バスケのために生まれてきた優等生・流川に対して、元ヤンキーの問題児・桜木花道をぶつけ、競わせた(結果そう云う形になった)安西先生マジックの如く、担任ハシTの作戦は結果的に大成功を収めます。

3年生の時には、私とダイスケは常にテストの結果で学年1番を競うほどになり、当時全道でトップの高校の受験を目指すまでになるのでした。

「あの二人……けっこう日本を騒がすコンビになるかもしれない…」
と、思っていたかどうかはわかりませんが、この話の舞台裏を聞かされたのは、卒業間近の頃か卒業後に再会した時だと思います。
担任をしていただいていた当時から尊敬はしていましたが、そんなマジックを使っていたとは、ハシTの手腕恐るべし…!!と心から感服したものです。

ハシTのイメージ画。正直そっくりです。笑


「映画監督」の夢を応援し、進路を示してくれた先生


こちらは、小学校の卒業アルバムに掲載されていた、卒業文集の一コマです。それぞれのクラスの企画、その一つ「将来の夢」。
私が小学生の頃、公言していた将来の夢は、なんと「映画監督になりたい」と言うものでした。

小学校の卒業アルバム
子供の頃の夢は、「映画監督になりたい」

当時のクラスメイトのみんなは、さすが男子!という感じで微笑ましいですが、自分はと言うと我ながら荒唐無稽で、なかなか勇気のある小学生だな、と思います。あんまり小学生で「映画監督」になりたがるとか、聞いたことないですよね…
これが小学6年生時のことなので、その後中学に進学してからも、この夢はキープされていました。

そもそも、私の幼い頃実家では、父が映画好きでよく週末には金曜ロードショー、土曜日のゴールデン洋画劇場、淀川さんの解説でお馴染みだった日曜洋画劇場、などを毎週観ていました。その影響もあり、子供の頃から映画が好きになり娯楽の大きな部分を占めていました。

もちろん同じ時代でプロ野球やJリーグなどのスポーツだったり、ドリフに始まりひょうきん族やとんねるず、ウッチャンナンチャン、ダウンタウンへと続くお笑いバラエティー番組、さらには小学生の頃に一気にブームになったファミコンや後のスーファミなどのゲーム、ジャンプ・マガジン・サンデー黄金期のマンガの数々など、同世代の子どもたちが楽しんでいた娯楽はたくさんありましたし、かく言う自分もそれぞれ楽しんでいました。

その中でも、やはり映画はエンターテインメントの王様というのか、別格の雰囲気がありました。当時はハリウッド映画の全盛の時代、少し大人っぽいジャンルにも感じられて、それがまた私の興味を引いたのかも知れません。
子どもながらに観た「ジョーズ」、「インディ・ジョーンズ」、「グーニーズ」、「グレムリン」、「E.T.」、「ロッキー」、「スタンド・バイ・ミー」、「ネバーエンディングストーリー」、「エイリアン」、そして「バック・トゥ・ザ・フューチャー」などなど…
夢のような冒険や本物のようなSF世界に夢中になって引き込まれました。

両親もそんな息子の思いに気づき、誕生日に筈見有弘先生の「スピルバーグ」という新書本をプレゼントしてくれたこともありました。

そして、その夢を決定づけたのが、アーノルド・シュワルツェネッガーさん主演で1991年に公開された、「ターミネーター2」でした。
父がシュワちゃんの大ファンだったので、珍しく家族で近所の映画館に行って観ることができましたが、大スクリーンで観たあの衝撃は今も忘れません。
少年アしやの心に、「映画って凄い!」と思わせるのにこの上ない、大傑作でした。


幼い頃からの夢、「映画監督」。

それを、中2で私の担任になったハシTは覚えていてくれていたようです。
恐らく中2の中盤〜後半の頃には、進路指導という高校受験やその他の進路に向けての個別面談などが行われ始めたと思います。

その時ハシTは、一冊のパンフレットを私に見せてくれました。
「耕平(先生には下の名前で呼ばれていた記憶があります)、東京にあるN大という大学には芸術学部があって、そこには映画学科という映画を勉強できる学部があるんだ。もちろん私立だから行くのはそれなりに大変な部分もあるが、本気で映画監督を目指すならば考えてみたらいいんじゃないか?」
と私に教えてくれました。
口では「映画監督」と言っていた私ですが、勿論その当時はなんの知識もなく、「英語も喋れないからいきなりハリウッドも行けないよなあ…」などと呑気に考えていたくらいのものでした。

…日本で、しかも北海道を飛び出して東京に行けば、映画が学べる!

高校、大学は受験勉強して北海道なら頭のいいやつはみんな北大を目指す。頭のいい順に、地元のいい仕事に就く。進路に関してそれくらいの漠然としたイメージしか無かった自分には、まさに目から鱗な情報でした。

映画を学ぶと言う夢を実現させるために、そこから具体的な進路を決めていくことになりました。それもこれも、ハシTの進路指導のアドバイスのお陰です。
このアドバイスがなければ、世間知らずな私が自力で東京にある大学の「映画学科」にまで辿り着けたかはわかりません。
しかも中学の時点でアドバイスいただけたので、そのN大の附属高校が北海道にもあり、その高校を進路の最有力の選択肢に加えることができたのです。

「とりあえず東京にある大学の芸術学部映画学科を目指しなさい」
と言われた私は、ハシTに、
「よろしく ご指導ご鞭撻のほど…(お願いします)」
と、首(こうべ)を垂れるのでした。


柏陽中男子バスケ部#9、アしや耕平

今回のブログを執筆するにあたって、実家の母に連絡して小学校と中学校の卒業アルバムを送ってもらいました。
母は現在、自身の実家である新潟県の佐渡に住んでいるので、わざわざ海を越えて急ぎ取り寄せました。笑

懐かしい!
中学バスケ部時代の貴重な集合写真がアルバムに掲載されていました。

男子バスケ部集合写真。
なんと、写真見るまで忘れていましたが、所属していたバスケ部のユニフォームは最強・山王カラーでした。ユニフォームだけなら強そう…笑

スローガンは「一意摶心」!ではなく、…
「ジャンプだ!ダッシュだ!」
なんか、中学生らしくて可愛いです。この写真は卒業アルバムに掲載されていたので私たちが最上級生の3年生の頃のものです。
当時は、あまり個人で写真を撮ると言う文化が無かった頃なので、ちびまる子ちゃんの親友のたまちゃんのお父さんのように、カメラ好きのお父さんお母さんとか学校が依頼したプロのカメラマンの方の撮影した写真以外はあまり残っていないんですよね。
まあ、この後私たちが高校生の時代になると、バカチョンカメラ(今だとコンプラアウト?)とか言われるような富士フィルムの「写ルンです」みたいなカメラやプリクラ、そして後の携帯電話につながるPHSなども普及してきて、爆発的に「自分たちの写真を自分たちで撮る」文化が広がるんですけど。
なので、貴重なバスケ部時代の写真です。

柏陽中学校男子バスケット部(※写真はイラストに修正してあります)


左端が芦谷(#9)、自分の顔だけ写真ベースで加工してあります。
他のメンバーはプライバシー保護の観点からイラストで…笑

3年間、バスケ部で共に頑張ってきた仲間は以前のブログでもチラッと紹介しましたが、(メンバーを軽く紹介した回はこちら…↓↓)


最初に私をバスケに誘ってくれた友・甘いマスクで韋駄天のSF(スモールフォワード)#5「マッちゃん」、そしてマッちゃんと同じくミニバス少年団からバスケを続けていた実力派、ゴリを彷彿とさせる熱血キャプテンでリョーちんのような電光石火の司令塔・PG(ポイントガード)の#4「テルちゃん」、バスケの堅実な実力でディフェンスの要でもある、山王の一之倉のような忍耐力も併せ持つ#6「クラさん」、背が高く、体格に恵まれチームの支柱となる期待を一身に受け、陵南の魚住の如くコーチの先生からもしごかれた不動のC(センター)、#8「ムラタ」は以前も紹介したメンバーです。

私は背番号#9、バスケ部当時にはまだ山王が原作「SLAMDUNK」には登場していないくらいだった気がするので、俺はエース・北沢だ!(「沢北じゃねーか…どあほう!!」と言うツッコミ待ち)と言う遊びはできませんでしたが、ポジションで言うとGF(ガードフォワード)〜SFあたりでプレイをしていました。
その他に、緩急をつけた攻めとシュートセンスのあるF(フォワード)#7ヒロキ、ムラタ頼みだったインサイドに体格の良さでPF(パワーフォワード)を任せられる存在になった#11「ホリ」、そしてダイスケと同じく私の幼稚園からの幼馴染で、大の仲良しだった元陸上部で俊足の#10「オサム」が途中入部してきました。

3年生になって自分たちが部活をメインで牽引するようになった頃には、上記のようにタレントも揃ってきて、チームとしても充実していました。
そうなると元々シックスマンの私は、ベンチ温め要員として試合などには臨むことが多かったです。
それでも、ベンチのメンバーもチームの一員としてみんなで戦っている、と言う湘北ベンチメンバーが山王戦で示したような信念のもと、本当に真剣に、仲間と楽しく部活動を続けて行けたように思います。

後輩たちにビシバシ手解きができるほどのゴリやミッチーみたいなセンスはあまりなかったと思いますが、部活への参加意識や普段の練習などに対する姿勢は教えられたのかな、と思います。

映画『THE FIRST SLAM DUNK』の山王戦の熱戦の中で、両チームのベンチや応援席からコート上の選手たちを必死で応援し、鼓舞する姿を見るとあの頃の熱い気持ちが蘇ってきます。

苦しい時こそ、声を出す。
バスケの、スポーツのチームプレイの基本だと思います。
その声援に後押しされて、コート上のリョータたちも声を出して、めいっぱい平気なフリをする。


私は残念ながら、花道や流川のような圧倒的なバスケの才能には恵まれず、その後は趣味程度としてバスケを続けるに留まっています。
まあ、少年時代に運動部系の部活に入っていた人のほとんどは、プロになれるわけもなく、今はただの人、なのが当たり前と言えば当たり前です。

それでも、中学3年間のバスケ部活動で培った体力や忍耐力、根性だったり土壇場での火事場の馬鹿力のようなものは、その後の人生にも、仕事や創作活動の際にも、ずっと活きていると感じます。
日本一の最強・山王工高のエース、沢北と同じ背番号#9.は、私にとって今でも誇りです。



#バスケ部 #THEFIRSTSLAMDUNK #SLAMDUNKMOVIE #最後まであきらめない男 #あきらめたらそこで試合終了ですよ

いつまで続くのか、どんな形で終われるのかまだ決めてはいないのですが、もう目前に迫ったBlu-ray・DVDの円盤発売に向け、少しでも盛り上がっていければ良いかなあと思っています。本当にあっという間でしたが、いよいよ発売まであと一週間を切りました!ぎゃー待ち遠しかったけどもうすぐです😂💽✨
リアルバスケ界では、いよいよこちらは明日に迫った、#AkatsukiJapan 男子日本代表のアジアカップ(VSグアム戦)、全力で応援してきたいと思います!!
#FIBAOQT #日本一丸 #バスケで日本を元気に #バスケ

こちらは中国戦の熱いキービジュアル!!🔥

ここまでご覧いただき有り難うございました。ご興味がありましたら、是非続きをお待ちいただければ幸いです。🏀🤜🤛🟥

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アしや(芦谷)耕平
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