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#2.漫画「SLAM DUNK」がバイブルだったバスケ少年は、如何にして映画『THE FIRST SLAM DUNK』の作画監督になったか 〜またはアしやの異常な愛情〜



その2. 「SLAM DUNK」花道に憧れバスケ部へ

伝説の「全国大会編」への夢

改めまして、2024年も何卒よろしくお願い申し上げます‼️🐉🐲🙇‍♂️
年始早々の能登石川大地震に航空機事故、被害に遭われた方へのお見舞い、お悔やみを申し上げると共に、皆さまにとって今年一年が幸せで、明るいものとなりますよう切にお祈り申し上げます。

前回の記事、その1. 「SLAM DUNK」と少年〜
にたくさんのリアクション(noteでは「スキ」❤️になるでしょうか)をいただき、読んでくださった皆様、ご興味持っていただいた皆様、年始からありがとうございました。

前回触れた映画『THE FIRST SLAM DUNK』の制作発表について、まず2021年の1月7日、世の中に第一報の発表がありました。SNSでの、井上先生ご自身のポストでした。
あれから昨日で3年の歳月が流れたんですね。
もう3年前のような、まだ3年しか経っていないような、不思議な感慨深さがあります。
発表時は、まだコロナ禍の終わりが見えない時期で、色々苦しい思いや窮屈な思い、自粛などを余儀なくされた生活の中、この発表にどれだけ勇気づけられ、生きる希望をもらったか分かりません。

前回リンクしたポストが、この30分くらい前に投稿された真の第一報で、その後先生の直筆と思われるこのタイトルをタイムラプスアニメにしたGIF画像の添付されたポストが投稿されました。こちらの方がその後、大拡散されたようです。ちょうどお昼休みの時間帯でした。

その時の自分の興奮も、世間が歓喜に沸いた衝撃も、まだ覚えています。
私は、その後自分のポストでこう語っていました。(これはあまり覚えていなくて、今回のブログのために遡って見つけました。)

今思えば、これは半分確信と、半分は運命だと感じていたと思います。
あまりこの時には、自分も多くを語ってはいないようですが、私が若い頃に夢?野望?の一つとして掲げていた大きな目標、それは「TVアニメ化されなかった、「SLAM DUNK」幻の全国大会編を、いつか映像化したい(そのプロジェクトに関わりたい)」というものでした。

その時がいつなのか、どういう形なのか、それは全く分かりませんでした。
また、長年井上雄彦先生のファンを続けている同志の方ならわかってもらえると思いますが、井上先生の場合、この先一生アニメ化は有り得ないかもしれない。そんな予感も、当時はありました。
当時というのは、まずは連載に先駆けて、TVアニメの放映が全国大会の直前で最終回を迎えたこと。
そして、その後同じ年内に(1996年だったかと思います)、原作「SLAM DUNK」の連載も全国大会の山王戦の終結と共に最終回を迎えた頃。

ジャンプでの毎週の連載も、土曜の夜だったかな?毎週のTVアニメの放送も、勿論両方楽しみにしていた私は、やはりショックでした。
ただ、同時に、TVアニメで全国大会が描かれなかったのも、ある意味では仕方ないというか、「SLAM DUNK」という伝説の作品が漫画連載の中であれだけの圧倒的なクオリティと、人気を保ったまま一番格好良い形で終幕を迎えたことに「もうこれ以上は確かにないのかも知れない」と妙に腑に落ちたというか、納得したのも覚えています。

その頃は高校生で、少し自分の将来についても朧げながらこういう方向だろうと予感めいたものは持っている頃でした。この辺りのお話は、また後日詳しくお話しする時が来ると思います。

もう一つ、「当時」と感じていた頃があります。その後大学に進み、芸術系の大学で映画・映像を専攻として学んでいた頃です。
子供の頃からずっと絵を描くことが好きで、暇があれば落書きをしていたような人間だったので、映画を学びながら、同時にアニメーションの専門の授業を受講し、3年生からはアニメーションの巨匠の先生のゼミに進みました。
明らかに今の自分のキャリアに繋がっている大学生当時、映画・映像・アニメーションを学び、毎日のように課題で映像作品と向き合っていました。(学友と飲んでばかりもいましたが。)
その頃は、「まだだ、まだチャンスがあるからその時は来ないでくれ。」

大袈裟に言えばそれぐらいのことを心の中では思っていました。
つまり、まだ自分が学生のうちは「SLAM DUNK」全国大会編のアニメや映像化のプロジェクトが始まってもらっては困る、自分はまだ勉強中なんだ、と言ったところでしょうか。
今考えると烏滸がましいと言うか、若さゆえの青臭さを感じて恥ずかしいところでもありますが、でも本音を言えばそうでした。自分がスタッフとして手掛けるチャンスは、もう少し将来であってくれなければ困るからです。
大学生の頃のお話も、またいつかもう少し詳しく語る日が来ると思います。やはりこの4年間がなかったら、自分はアニメーターにもなっていなかっただろうし、よもや映画『THE FIRST SLAM DUNK』に関わるなんて夢のまた夢、となっていたでしょうから。

大学での時間、教えてくださった師匠の先生方、そして一緒に切磋琢磨し馬鹿をやり合った学友には、今も大きな感謝をしています。


兎にも角にも、そこから20数年の歳月が経っても、ついぞ「SLAM DUNK」全国大会編の映像化のプロジェクトは発表されることはありませんでした。
ある意味では、若き日の私の願いが通じたのか。
しかし一方で終生の大ファンとしては、いつかこの目で観てみたいと言う思いもまた、大きかったです。

2021年の1月7日、その日が来るまでは。

制作発表第一報当時は、前回のブログでも触れましたが、まだ内容などは一切明かされていない状況でした。
勿論それが全国大会編なのかも分からないですし、もっと言えばアニメーション作品なのかどうかも分からない状況でした。
分かる事は、ただ一つ。「映画」である。という事。

でも、どこかで、やはり期待というか希望というか、きっとそうに違いない、という思いなのか願いなのか……予感めいたものはありました。



「あの試合だ。」


中学生になり男子バスケ部へ入部

話はだいぶ大昔に遡ります。
前回も少し触れましたが、私は子供の頃は北海道の片田舎に住む小学生でした。恵庭市という、札幌の南に位置するごく普通の小さな街です。
私が友人知人に出身地を紹介するときは、必ずこう言います。
「誰もとまらない街」。
とまらない、と言うのは、止まらない・停まらない・泊まらない…など色々な意味ですが、要は観光客の方が新千歳空港に到着して、JRやその他交通機関でまず札幌に遊びに行くとして、恵庭はその通過点の駅だから殆ど皆さん素通りされますよ、と言う意味です。地元の友人たちが聞いたら怒られるかも知れませんが笑、これと言って目立った観光スポットなどもない、静かで平和な街、くらいにしておきましょうか。あまり余計なこと言うと本当に怒られそうなので笑。

今でも小学校中学校からの友人たちは恵庭で暮らしている方も多いです。勿論、決して故郷を嫌いなわけではなく、愛着もありますし友人たちも今でも仲良くしてくれる仲間が多いです。中学時代の恩師もまだいらっしゃいます。
ただ、私の当時暮らしていた実家はもう恵庭にはありません。
なので、帰省することがなくなってしまいました。実家がなくなったのは大学を卒業して、社会人になったばかりの頃なので、もう20年くらい前でしょうか。実家の経済的事情なので、お恥ずかしい話であまりこのブログで詳しく触れる事はないかも知れませんが、そういう事情もあり近年では恵庭に遊びに帰ることも少なくなってしまいました。
実家が文字通り無くなった、と言う当時は2002〜2004、5年の頃でしょうか。日本の世の中の景気も悪く、我々の世代はその後”ロストジェネレーション”と言われるようになった世代で、実家もそうだし、社会に出る我々も就職氷河期でかなり辛い時代でした。

まあ、それはそれとして。今でこそ少し疎遠になってしまった故郷の恵庭ですが、私が小学生の頃は世間もバブルでしたし、中学生の頃にはさほど裕福でない私の実家も少しずつ大きな家に引っ越し、学校が終わればクラスメイトたちとそれぞれの家や近所の公園なんかで毎日遊び、楽しい子供時代を過ごしていました。

遡りすぎかも知れませんが、子供時代にまず幼稚園から一緒で仲の良かった、「オサム」と言う小さい頃から足の速い、子供ながらに一番「意気投合」したと感じた友達がいました。
また、同じく幼稚園から一緒のいわゆる幼馴染み、小さい頃から目立っていて、世が世なら「ガキ大将」と呼ぶに相応しいようなキャラ立ちの、「ダイスケ」と言う友達もいました。このダイスケは、小さい頃から友達ですが、かと言ってずっとべったり一緒にいたような間柄でもなく、だけど結果的には小中高そして大学までずっと同じ学校に進み、ある時代には「終生のライバル」とまで本当に言われてしまうような関係性でした。
例えるのもどうかと思いますが、言わば桜木花道と流川楓のように(ごめんなさい)、ずっと関係が続いていました。今でも、北海道に行くときは一番に連絡するような、あるいは離れていても何かあればお互い連絡取るような、本当に不思議で深い縁を感じている友です。キャラ的には正反対と言っても良いんですがね。面白いものです。

少し進んで、小学生の頃、5〜6年生でしょうか。特に仲良くしていた友人に「マッちゃん」と呼んでいた、ある時隣の千歳市から転校してきた男がいました。転入して直後の運動会の団体競技「漁川下り(いざりがわくだり)」(※漁川は恵庭市に流れる一級河川、幼少期の私の遊び場のひとつ)と言うアスレチック競技の花形である走り手にいきなり選ばれ、韋駄天の速さで1位を掻っ攫ったスポーツ万能、甘いマスクの衝撃の転校生です。
マッちゃんは転入して同じクラスになり、前述のオサムたちと一緒に仲良しになり、良くうちの実家や近所の公園で遊んでいました。

当時そのマッちゃんはミニバス(小学生のバスケットボール少年団)も始めていました。
世間はちょうど日本にサッカーのJリーグが創設され、キングカズさんたちが一躍お茶の間のスターにのし上がった様な頃。
かと思えば私の家では、日本のお茶の間のTVスポーツ観戦王者・野球が根強い人気も見せており、両親は巨人ファンだし親父は元高校球児ということで、どちらかと言えば野球派、な一家。私は男3人兄弟の長男なのですが、かく言う弟二人も、野球少年団に入団しその後高校、大学、社会人まで野球を続けるような家族でした。
世の中は折しも Jリーグのサッカーブーム。
後に終生のライバルと言われるダイスケなんかは、サッカー少年団に入りサッカーの道へ。当時一番目立つ、現在で言う「陽キャ」と言われるようなグループの男子はサッカーを選ぶ奴が多かったと思います。
方や、伝統的な、日本男児なら一度は憧れる甲子園という頂点を目指す、野球の道。「1億円プレイヤー」という言葉が当たり前となった時代で、プロへの道も夢がありました。野球部を目指す友人も沢山いました。

その中にあって、「バスケットボール」という新しい道。
確かに、体育の授業ではソフトボールをやるよりもまずバスケが先だったように思います。サッカーの時間もありましたが、何せ人数がいる。
その点、体育館に必ずゴールがあり、5人対5人いれば競技として成立するバスケットボールは、意外に身近なスポーツの一つではありました。

でも。
当時さほど運動神経が良いわけではなく、どちらかと言うと成績優秀のガリ勉(ガリ勉では全然なかったのですが、)タイプ?と言うのか、自分で言うのもなんではありますが、「お利口さんの優等生タイプ」のカテゴリーだった私は、バスケットボールのようなまだ未知の、と言うのか、一般的にはそれほど認知されているのかよく分からないスポーツに打ち込む、と言う選択肢があまり想像ができませんでした。


…ちょうどその頃、週刊少年ジャンプで連載が開始された高校バスケマンガ、「SLAM DUNK」に出会うまでは。


1990年に連載開始された「SLAM DUNK」。
当時私は小学5年生でした。

当時少年ジャンプには、
DRAGON BALL、ろくでなしBLUES、DRAGON QUEST ダイの大冒険、花の慶次 -雲のかなたに-、
など、珠玉の大人気連載作品が目白押しでした。
ただ、その1〜2年前に、幼稚園児くらいからかっこいい!と思ってアニメもかぶりつき、ずっと大好きだった「聖闘士星矢」の連載が終了していました。その前に「北斗の拳」も終了しており、一つの時代が終わりを告げ、ジャンプ誌上でもなんとなくですが、新時代の幕開けを待たれているような時期でした。

そこに鳴り物入りで始まった、期待の新人(連載は2作目)井上雄彦先生の描く高校バスケマンガ、「SLAM DUNK」。
とにかく面白かったです。

当時、ちょうど10歳〜11歳くらいの年齢でだんだんと思春期に差し掛かり、それまで夢中だった「聖闘士星矢」や「DRAGON BALL」の荒唐無稽で奇想天外なファンタジーバトルもの、のような世界観から、少し大人になっていきリアルな人間社会というか、自分の想像の及ぶ範囲の日常であったり現実が見え始めてきた時期とも重なったからでしょうか。
ジャンプには「ろくでなしBLUES」と言うリアル高校ヤンキーものの金字塔の漫画がすでにあり、勿論めちゃくちゃ面白く、みんな「ぶるーちゅ」の時のあの舌を出すお約束のふざけた顔を真似してました。ですが、私にとっては少しだけ、「羨ましいけど、カッコいいけど太尊たちが住むのは、自分とはちょっと違う世界だな」と、ヤンキーへの憧れとそうはなれない自分との距離を感じつつ楽しんでいるような感じでした。(勿論大好きな作品なので全巻持っています。)
何せカテゴリーが「優等生タイプ」ですから、喧嘩やタバコなんかするような柄じゃなかったのです。

「SLAM DUNK」は、主人公の花道や仲間の桜木軍団(あと後ほど出てくるミッチーたち)こそヤンキーぽくはありますが、そのほかの主要登場キャラは皆、普段は部活などに真面目に打ち込む普通の高校生です。
当時他にも作品はあったかも知れませんが、一番身近で、そしてきっと理想的でもある青春時代の一般の高校生の姿が、そこにあったのです。
そして、バスケです。

「ここかあ!」
と思いました。自分はヤンキーでもないし、花道のような恵まれた体格も天性の運動神経もない。でも、花道は同じ「初心者」と言う、その後の花道を知っていて、彼の素質や成長の素晴らしさに感動の涙を流した者として烏滸がましいですが、その当時はこう思ったのです。
「花道は同じだ。自分と同じ土俵からスタートして、一緒に歩んでくれる仲間だ」、と。
ライバルの流川の存在も素晴らしかった。最初こそ恋敵としての登場ですが、彼は天性のバスケエリート。しかも顔もいいから女の子にもモテる。
でもベラベラ喋らない!(←ここかなり重要。笑)
格好良いな、と思いました。そしてこの二人をずっと見ていきたいな、とも。
勿論ゴリこと赤木の絶対的存在感も。これぞバスケのために生まれたバスケ・マシーンだよな、と圧倒されたのを覚えています。その後明かされる、ゴリの葛藤や苦悩もまだ知らない頃です。
そのゴリが最初の対決で圧倒された、花道のフンフンフン!ディフェンスも。
最高に笑いました。

折しも、世間にも「SLAM DUNK」が一緒に運んでくれた、アメリカのNBAブームが来ていました。マジック率いるレイカーズや、M・ジョーダンのブルズが一気に人気爆発し、「神」と呼ばれた男の最高峰のプレーを、幸運にも日本でも毎日のように目の当たりにできるようになった頃です。

一緒に遊んでいる時に、時折マッちゃんが言ってくれたことがありました。私は芦谷なので、当時「あしやん」と呼ばれていたのですが、「あしやんもやろうよ、バスケ」。

小学生の頃、初めのうちは「う〜ん、おれスポーツって柄かなあ?」とか言って誤魔化していましたが、年次も上がり、「SLAM DUNK」でも花道が経験と挫折を繰り返す中でメキメキと成長していく様を一緒に見ていた頃です。そろそろ、小学生で居られる時間も残りわずかとなっていた、卒業の季節。

「マッちゃん、わかった!おれ中学生になったらバスケ部入るよ!一緒にやろう!」

自分も、もしかしたら花道みたいになれるかも知れない。
花道や流川ほどにはなれなくても、こんなに楽しくて、興奮するバスケットボールを自分もやってみたい!

その春、地元の中学校に進級した私は、入部届にバスケットボール部希望と書いていました。1993年の4月だったと思います。



いつまで続くのか、どんな形で終われるのかまだ決めてはいないのですが、先日発表されたBlu-ray・DVDの円盤発売に向け、少しでも盛り上がっていければ良いかなあと思っています。また、久々の復活上映の詳細も発表されましたね!行きたい!!

ここまでご覧いただき有り難うございました。ご興味がありましたら、是非続きをお待ちいただければ幸いです。🏀🤜🤛🟥

#今年のベスト映画 #仕事について話そう  #かなえたい夢 #今年のふり返り



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