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法華経の風景 #5 「七尾・羽咋」 宍戸清孝・菅井理恵

ヘッダー写真:羽咋・千里浜

 写真家・宍戸ししど清孝きよたかとライター・菅井すがい理恵りえが日本各地のきょうにゆかりのある土地を巡る連載。第5回は石川県の七尾ななお市と羽咋はくい市を訪れた。


 北陸新幹線「かがやき」が終点の金沢駅に近づくと、荷物をまとめる人たちのざわめきが聞こえてきた。ホームに降りると、湿気を帯びた熱気に包まれる。行き交う人には外国人も多かった。

 加賀藩の居城が置かれた金沢は、京都の公家文化と江戸の武家文化が融合し、独自の「加賀文化」が花開いた。その栄華は、藩祖・前田利家が織田信長に能登一国を与えられたことに始まる。だが、利家が最初に入城したのは、金沢から70キロほど離れた七尾城。当時、北陸の中心地は能登国・七尾だった。

羽咋

 利家が入城する半世紀近く前、長谷川等伯は能登国の戦国大名、畠山氏の家臣である奥村おくむら文之丞ぶんのじょう宗道むねみちの子として七尾に生まれた。等伯と言えば、国宝「松林しょうりん屏風びょうぶ」を思い浮かべる人も多いだろう。そのモデルが故郷の松林だという説がある。

 訪ねたのは、能登半島の西側に位置する羽咋市。海に沿って並び立つ松林は、かつて能登を象徴する光景として知られていた。しかし、ようやく見つけた松林は木々の間に隙間も目立つ。目の前に広がるコバルトブルーの穏やかな海とは一線を画すように、強い海風に押されながらも光を求めて上へと伸びる松。強烈な夏の日差しは、その無骨な姿を露わにしていた。

 松林の近くには、日蓮の孫弟子が佐渡から京に向かう途上で創建した日蓮宗の寺があった。畠山氏は法華寺院を庇護ひごし、等伯もまた熱心な法華信者だったことが知られている。

 羽咋市から能登半島を横断し、七尾城跡を目指す。等伯が生まれた天文八(1539)年は、七代当主・畠山はたけやま義総よしふさのもと、能登国が最も繁栄していた時期にあたる。七尾城は全国でも屈指の山城で、城郭考古学者の千田せんだ嘉博よしひろさんが「山上都市」と讃えるほど。地名の由来となった七つの尾根筋を中心に多くの曲輪くるわ(屋敷地)が連なり、ふもとの城下町は活況を呈した。

七尾城跡

 今も残る石垣を頼りに、当時の栄華を想像する。息を切らして本丸跡まで登ると、東西に連なる山から七尾南湾に向って扇状に広がる市街地が見渡せた。水運が発達した七尾には京都の高僧や文化人がたびたび訪れ、等伯は洗練された文化に触れて育つことになる。

 撮影が終わる頃、駐車場へと戻る一本道に獣が現れた。目を凝らすが、それが何か分からない。向こうもじっとこちらを窺う。重なる視線が和らいだのは、草を食み始めた獣が「ニホンカモシカ」だと分かってからだった。

七尾城跡

 城下町にある「七尾郷土資料館」の脇に川が流れていた。川面に下りる階段を見て、生活に根差した川なのだと思う。資料館で確認して、七尾城の水源である「おとしがわ(木落川)」だと知った。

 奥村家は城下町にあったらしい。等伯の幼名はまた四郎しろう。家督を継ぐ兄がいたのか、等伯は染物屋を営む縁戚の奥村おくむら文次ぶんじを通して、同じ染物屋の長谷川家に養子に出されている。

 当時、流行していたのは「つじはなめ」。直接、生地に絵を描く「描き絵」の技法も使われ、花や鳥などが繊細な筆遣いで描かれた。等伯は幼い頃から長谷川家で染め物を手伝っていたとも言われる。蹴落川でも色とりどりの反物が浮かんでいたのだろうか。

蹴落川

 等伯が38歳になった天正五(1577)年、ついに七尾城が陥落し、能登畠山氏は滅亡した。蹴落川の名前は、城に攻め入った上杉謙信が籠城した人たちを蹴り落としたという伝承に由来する。赤く染まる川の流れに、城下で暮らす人々は繁栄の終わりを予感しただろう。

 城下町から車で10分ほどの場所に、「やまでら寺院群」がある。

 謙信は戦いに勝利した半年後に急死。その後、七尾城に入城した前田利家は、まもなく海に近い小丸山こまるやまに新たな城を築いた。その時、城下にあった29の寺院を現在の七尾市小島町こじままちに移築したという。

 現存する16の寺の半数は法華寺院で、奥村家や長谷川家の菩提寺もある。海に近いが、山あいにある寺院群は、夕刻が近づくと山の影に太陽が隠れて、少し暑さが和らいだように感じる。

法華谷

 等伯は義父の長谷川はせがわ宗清むねきよから絵の手ほどきを受けたと言われている。七尾で暮らしていた頃、等伯は「信春のぶはる」の名で活動していた。七尾や富山、新潟などで「信春」の印が押された作品が十数点見つかっているが、その多くは仏画で法華寺院に納められている。

 この時代、京都に本山をもつ法華寺院の住職は、年に一度、必ず本山に上がったという。等伯はたびたび上洛して絵を学んだと考えられているが、その時に寝泊まりしたのは、生家の菩提寺である本延寺の本山、京都の本法寺だった。

星雲

 七尾駅前には、故郷を旅立とうとする等伯の銅像「星雲」がある。等伯が本法寺を頼って京都に移り住んだのは、30代から40代の頃。それまで、七尾でどのように暮らしていたのか。長く謎だった等伯の人生は、故郷の人たちの調査で少しずつ明らかになっている。

 夕方、羽咋市の松林をもう一度訪ねた。上がり切った気温は行き場をなくし、潮を含んだ湿気が身体にまとわりつく。無骨な松は夕暮れに沈み、周囲ににじんでいくように感じた。

 やがて、等伯は京都で狩野派と並び立つほどの絵師になる。国宝「かえで」をはじめ、華やかな傑作で栄華を極めた50代。そのなかで「松林図屏風」は、画才に恵まれ、跡継ぎと期待した長男の久蔵きゅうぞうを亡くした悲しみの果てに生まれている。

 すでに利家は七尾を去り、北陸の中心地は加賀藩・金沢に移っていた。

羽咋・千里浜


〈次回は9月25日(月)公開予定〉


【参考文献】
宮島新一『長谷川等伯』(ミネルヴァ書房、2003年)
「没後四〇〇年 長谷川等伯」展 図録(東京国立博物館、2010年)
『新修七尾市史 12 造形文化編』(七尾市、2010年)
宮島新一『等伯が見えてきた』(北國新聞社、2022年)

宍戸清孝(ししど・きよたか)
1954年、宮城県仙台市生まれ。1980年に渡米、ドキュメンタリーフォトを学ぶ。1986年、宍戸清孝写真事務所を開設。1993年よりカンボジアや日系二世のドキュメンタリーを中心に写真展を開催。2004年、日系二世を取材した「21世紀への帰還IV」で伊奈信男賞受賞。2005年、宮城県芸術選奨受賞。2020年、宮城県教育文化功労賞受賞。著書に『Japと呼ばれて』(論創社)など。仙台市在住。

菅井理恵(すがい・りえ)
1979年、福島県喜多方市生まれ。筑波大学第二学群人間学類で心理学を専攻。2003年、日本放送協会に記者として入局し、帯広支局に赴任。2007年に退局し、写真家・宍戸清孝に師事する。2014年、菅井事務所を設立。宍戸とともに、国内外の戦跡や東日本大震災の被災地などを取材し、写真集・写真展の構成、原稿執筆などに関わる。情報誌や経済誌などで、主に人物ノンフィクション、エッセーなどを執筆。現在、仙台の情報誌『りらく』で、東北の戦争をテーマにした「蒼空の月」を連載中。

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