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「楽になりたくて、余裕が欲しくて。」なあなたへ。

「紅茶を飲みたい私。紅茶を飲んだら満足してしまった私。」

この一文にこめる想いは、たぶん、つよくて、わかりにくい。

とりあえず、仮置きとして、
「あなたは紅茶を飲みたい。」
ということにしよう。

カフェオレでもいいし、苺のショートケーキでもいい。

そしてあなたは、
「紅茶を一口、口にした。」
としよう。

あなたはこう思うだろう。
「ああ、満たされた。」
とか
「ああ、満たされている。」
と。

どうしてか。それは、
「紅茶を飲みたかったあなたが、紅茶を飲んだから。」
である。

どうしてそう思うだろう。それは、
「紅茶を飲んだことが、紅茶を飲みたかったことを確認したから。」
である。

つまり、
「紅茶を飲んだことが、紅茶を飲みたかったあなたを確認して、
 叶えたかったことが叶ったことに満たされたから。」
である。

「やりたかったこと」を「叶えたから」ではなく、
「叶ったから」「やりたかったこと」があったことを確認したのだ。

もし、
「やりたかったこと」を「叶えなかった」とすると、
「叶えなかったこと」は「やりたくなかった」のだろうか。

いや、そうではないだろう。

「紅茶を飲みたい」ことを「叶える」ことは一般的に難しくはないだろう。

しかし、

「紅茶のお店を開きたい」ことを「叶える」ことは比較的難しいだろう。

実現するまでは、紅茶のお店を開きたいと思っていても、
「本当に開きたいのだろうか」
とか
「失敗してお金や時間を失ったり、馬鹿にされたらどうしよう」
と思うだろう。

「紅茶の店を開く」ことでしか確認できないことがある。

「叶えたかったことが」
「叶って」
「叶えたかったことを確認した」
から満たされたのだ。

ところで、
「叶えたいこと」
はどのようにして生まれるだろう。

これにはさまざまなことが考えられる。
「叶えたいというエネルギーだけがある。」
「親の代からの夢で、その実現を任された。」
「急に頼まれて、やらざるを得なくなった。」
「それで稼げたら一番楽だと思った。」
「会社で働けなくなってお店を開いた。」

能動的にも受動的にも、理由がある。
要因とも言える。

「叶えたいこと」を「確認」して満足できるのは、
基本的には能動的だった時だ。

「叶えたくないこと」を「確認」して満足できることは、
あまりないだろう。

「やってみたら意外と満足できた」という場合は
考えないことにしよう。ややこしい。

人は基本的に、
「叶えたいこと」が「叶い」、
「満足を確認した人」のことを羨んだりするし、
そういうアプローチをしている人を応援したくなる。

「叶えたい」と思っていることに一生懸命な人は素晴らしい。
どうして?
頑張っているから。苦労しているから。努力しているから。

自身を鼓舞して「確認」を望んでいる。

これに「大義」「野望」なんかが乗っかってくると、
人を惹きつけたり素晴らしい人と思われたりする。

でも、日常ってそういうものだろうか?

「仕事」「家事」「人間関係」「印象」「欲」

「叶えたい」ことはあるか?
「確認したい」ことはあるか?

「叶えたい」と思えば思うほど、
辛く、余裕がなく、劣等感と焦燥感に駆られたりしないか?

「大義」や「野望」や「浪漫」は、
辛くて、余裕のなくて、劣等感や焦燥感なんて求めたりしない。

でも、日々私たちを突き動かしているのは、
「大義」や「野望」や「浪漫」なんかじゃなくて、
劣等感や焦燥感であることの方が明らかに多い気がする。

キラキラした「夢」よりも、
ドロドロした「自己嫌悪」の方が動けたりする。

私たちを繋ぐのは、
「美味しい淹れたての紅茶への期待」よりも
「美味しい淹れたての紅茶を飲めない劣等感」の方。

もっと言えば、その両方。
その両方のバランスに私たちは「意志」を持ち込む。

これまた厄介なことになる。

だから、
「意思」よりも「意識」の方を考えたい。
「どのような意思で何を叶えるか」もいいけれど、
「どのように意識と一緒に居るか」も大事にしたい。

「意識」は気まぐれで、
劣等感も焦燥感も夢も希望も生んでくれる。
「意思」は「意識」から生まれてくる。

だからもしあなたが紅茶を飲みたいと思ったら、
3回に1回はカフェオレを飲んでみるといいかも。

「意思」と「意識」で確認できる「満たされた感じ」を
体験できると思うから。

そうしたらきっと、少し、余裕も生まれるかも。
そんなバランスで生きていく。

さあ私、カフェオレでヒタヒタになろうかなあ。

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