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春の現。

春は苦手だ。

昨年もきっと、同じことを書いているはずだ。
ここ3年ほど、春に満足した日がない。

苦手な春をどのようにやり過ごすかばかりを考えながら、逃げ先を仕事に、趣味に、書籍に、夢に、虚無に見出そうとする。

昨年の夏頃から、現実がマトリックスのように見えてきた…と
「何回言うねん!」とツッコマレルほどには思っている。

今私が動かしている指は、私の意思で動いてるのだろうか。
そう考えた私は、1秒前の私とは同じ意識だろうか。
次の瞬間には私の意識は飛んでいるのではないだろうか。

そんなことを考えるだけなら、苦労はしない。
そんなことを感じるとしたら、どうだろうか。

先日購入した書籍「行動の構造」モーリス・メルロー=ポンティ著。
「身体は他の物体と同じ並行世界に存在している。
 心は並行世界には在らず内的世界に存在している。
 ではこの意識はどこに存在しているのだろうか。」

デカルトに代表される「身体二元論」、ドゥルーズ=ガタリに代表される「心身問題」の沼にハマったと気がついてはや1年が経過した。
子供の頃から、わからないと思っていた。

中学生のテスト期間。勉強して頭に入れたことを紙に書き出し、それが正しい形で解答できれば高い点数がもらえる。勉強が得意な者、苦手な者、いろんな人間がいた。私は中学生の時は勉強が得意な方だった。頭に入れることは簡単だし分量もそんなに多くない。勉強しなくても満点に近い点数を取る日もあった。

もちろん勉強はしていたから点数が高くて当たり前だと思っていた。
しかし、小さい時にスポーツで育った私としては、勉強というものそれ自体がわからなかった。

知識(情報)をインプットして、アウトプットするとは、どのようなことを言うのか。

スポーツで育った私は、物理学ができなくてもボールを打つことができた。しかし、私はボールの打ち方を知らなかった。ボールがコートに入るには、物理学の世界の元で適切に体を動かしてラケットを振らなければならない。その構造を知っているテニス選手はほとんどいないだろう。
しかし、知らなくてもボールはコートに入るのだ。この際高い成績を残すとかそういうことではない。ボールがコートに入るのを、身体能力で反復練習し、物理学を現実のものと使いこなすことがテニスには求められる。

では、テスト勉強ではどのようなことが身体に求められるのだろうか。
いや、身体に何が求められるかと言えば、適切に回答を書き出す鉛筆の動きのみだ。全くつまらなかった。

しかし、インプットした知識、
問題.例えば「現実」の読み方を答えなさい。
回答.げんじつ
という一連の流れがあったとして、「現実」と聞いて何を感じただろうか。
もしくは、文字の羅列、
問題.例えば「現実」の読み方を答えなさい。
を見て、どうして「げんじつ」と答えられるのだろうか。
文字の羅列、線の組み合わせ、音の連なりであるのに、そこに意味を込めて、感じるものすらある。

また、春の「現実」と冬の「現実」というのではそれなりに響きが違うのではないだろうか。
例えば映画で、感動を誘うような「現実」を演出するのであれば春の桜の河川敷なんかで撮影するのがいいだろう。
一方で、辛い・悲しい感情を誘うような「現実」を演出するのであれば「冬」の桜の幹、枯枯としている河川敷で撮影するのがいいだろう。

しかし、同じ「現実」。
どちらでラストを迎えようともフラットな「現実」であることに変わりない。それであるのになぜ季節で感じ方が違うのだろうか。
もちろん、撮影するシーンまでの経緯の話ではない。
「現実」は常にそこにあるのに、感じ方が多様にあるということを言いたい。

そのように考える時、さまざまなことがわからなくなってくる。
私が認識したものと、私が知覚したものはどのように整合性が図られるだろう。

スポーツの世界では、わかりやすい。
物理学で必要とされたその解答(動作)が、できているか、できていないか、常に反復練習で結果と向き合う。
野球のバッターでも、直線的な弾道のホームランと、半円の弧を描くホームランと、その違いはあれども常に結果はすぐに出る。

しかし、日々の生活や、勉強、仕事、コミュニケーションには正解がない。
どのように進めるのが法則に従っているのか、どのように認識するのが整合性を保つことができているのか。
果たして本当に、目で見た通りに現実があるのだろうか。
そう考える仲間に出会いたいなあ〜と、今日も紅茶を注いだ。

インプットとアウトプットの間、「再解釈空間」には、「チカラ」をこめることができる。あなたも、学校のテストやビジネスのプレゼンなどのタイミングで「手応え」を感じることがあるだろう。
その手応え、何に感じているのだろうか。
それはきっと、あなたが解答(動作)したことが普遍的な認識と相違無いという確信を掴んだことに対して、だろう。

ところで、鉛筆で紙に文字を書いただけで、何を確信するのだろうか?
「再解釈」を正しく行えることは、人に大きな幸福感を与えてくれる。
(競争社会ではストレスの方が大きいかもしれない)

そう考えているうちに、他者とのコミュニケーションについては、勉強よりもより脆いものだと思うようになった。目の前のあの人が言っていることを理解した気になっているだろうが、全く違う経験をなぜその場で共有できるのだろうか。同じことを勉強した人間や、同じことを体験した人間ならいざ知らず…

文字で見たインプットや体験したことを絵にできる人がいる。
絵で見たインプットが文字にできる人がいる。
そこには必ず、身体感覚があるだろう。
作業が一通り終わった時、苦労したならばひとしおに、「できた〜!!」と言いたくなるだろう。

何が「できた」のだろうか?

「できた」というのは何かを作り上げた時に使う言葉だ。
絵で見たインプットを文章にした時、真っ先に言いそうなのは「書けた〜!!」だ。
しかし、文章や文字を使った仕事や活動をやり遂げた時、「書けた〜!!」というのは書道家ぐらいだろう。

何が「できた」のだろうか?

全てのものには身体感覚がある。
たとえ、ドイツ語の勉強を初心者から始めるのだって、訳のわからない単語にすら「身体」の作用が働き、「身体性」を駆使しながら上達することだろう。

しかし、知識情報のインプットが近く情報として変換されるのは不思議だ。
人間は情報の80%を目から得ているという。
視覚は感覚器であるので、知覚情報だというのが一般的な考えと思う。
では目で見ているものが知識と結びつく、その確証性は何が担保しているのだろう。過去の経験か。ところで、過去とは何のことを言うのだろうか。

過去は存在しない。未来も存在しない。

過去として保存されている記憶が、私の知識情報のメモリーとしてのみ保存されるなら、寝ている時、起きている時に編集されていてもおかしくない。
あの時見た神社の鳥居は本当に赤かったか?石でできていなかったか?
両親の性格はそのようだったか?思い出せない同級生の友達は、本当にいたか?

過去が記憶である以上、過去は存在しない。
もちろん、それ以上に、未来も存在しない。

そして人類の数だけ過去と未来がある。
あなたが目の前で見ているものが、思っている通りなんて都合が良すぎないだろうか?
私はそう考え、感じる。

私たちは今を規定することしかできない。
目を開けている時、閉じている時に限らず、常に脳が処理している瞬間だけが私たちを規定できる。
過去も未来も私たちを規定できない。
なぜなら脳の処理と関係のない時間軸だから。

私が見ているものは、何だろうか。

明日は来るのだろうか。

明日?今?過去?

私たちの認識は常に、物語の中にあるのかもしれない。

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