[受験異説#6]予備校講師の方を馬鹿にすれば害があり、尊敬すれば益がある。

注、ここで言う「害」(実害・損害)はネットに悪口書いたら訴えられたとかいう話ではない。心の中で馬鹿にすることも含める。


・現状の指摘と導入


「予備校講師は低俗だ」とか「社会人としてケシカラン」とかそういうことを言う受験生が一定数いる。
そういう奴に、低俗じゃないんだぞ、とか言ってもどうせ聞かないだろう。それは仕方ないし、人間が持つ一つの意見としてはアリかもしれない。

でもそういうことを、例え心の中だけでも思っていること自体、学習上の実害が生じると俺は思う。人間が持つ意見としてはよくても、受験生が持つ意見としては良くないということだ。

その実害について説明し、道徳ではなく実利の側面から、そのような態度をやめるよう説得するのがこの記事の目的だ。


・君は本当に強いのか (通説への批判)

「予備校講師なんて」とか「大学受験なんてしょうもない」とか言っている人に聞きたい。

じゃあ君は、馬鹿にしているその予備校講師に、馬鹿にしている大学受験というフィールドで、勝てているのか?その「下らない」大学受験に苦戦しているのなら、それはどうして?

予備校講師の方々は、たいていの受験生より年上だと思う。年上だから長生きしている。つまり、問題解決の技術・問題を解いた経験・その学科に関する知識は、君より多く持っているということになる。

技術と経験と知識とで負けていて、本当に君はバカにできるほど強い受験生なのか??よく考えてほしい。


・技術と経験と知識で勝る予備校講師の方をバカにすることの3つのリスク

「別に技術と経験と知識だけくれてりゃいいんだよ」と言う人もいるだろう。

しかし、心のどこかで馬鹿にしている人の言うことは、いくら受験に直接関係していても、100%は聞けないものだ。これが、実害その一だ。自分よりすごいその道の先達の話を、完全に吸収できないこと。これは明確なトレーニング上のリスクになる。

第二のリスクは、先生の雑談・こぼれ話を聞けなくなってしまうことだ。「受験の話だけしてろよ」と思っていれば、受験に直接関係ない話(に一見見える話)なんか、絶対に聞けなくなってしまう。
しかし(よっぽど関係ない限り)どんな雑談でも、同じ人間が話す限り、根底にある思想はその先生が教える受験科目と通底していると俺は思う。よく咀嚼すれば何か学べるところがあるはずだ。また、授業がうまい一流の先生は、関係ない雑談をしているように見えて実は雑談も、授業とつながっているものだ。そういう雑談はある種の伏線であって、聞かないのはもったいない。

第三のリスクは、予備校講師の方々というより大学受験そのものについてだ。

自分が取り組んでいるものを見下していると、前向きに努力なんてできないし、それ以上に、それで結果を出せない自分を自己嫌悪してしまうことになる。これが第三のリスクだ。
受験本番に限らず模試だって、他人が関わる勝負事だから、うまく行って合格したりA判取れる時もあれば、落ちたりC判を取ったりすることもある。絶対に勝てる方法・絶対に合格できる方法なんて絶対に無い。

上手く行っているときはいいが、うまく行かない時、大学受験を見下していると「こんな簡単でくだらないことも俺はできないのか」となってしまう。普段バカにしている分が、跳ね返ってそのまま自分のメンタルにダメージを与える

このように、大学受験や予備校講師の方々を馬鹿にする態度は、精神的にも学習上も、シンプルに損だ。


・予備校講師の方を好きになったり尊敬することでのリターンと、その根底にある原理について

だから、予備校講師の方をキチンと尊敬しておいた方がいい。別に受験が終わるまでで構わないから。それが実際の強さにも繋がる。
好きでいれば、尊敬していれば、雑談も授業も全力で真剣に聞けるようになる。また、大学受験を難しいと認識していれば、うまく行かない時も「まだ俺は弱いからできなくて当たり前、でも絶対に乗り超えてやるぞ」と謙虚に前向きに努力を継続できると思う。人を好きになるだけでこんなにリターンがあるのだ。

そして最後にこの主張の根底にある、「守破離」という原理を紹介したい。

守破離は、日本の芸事に昔からある成長論の一つだ。(俺だけが言っている話ではなく、由緒正しい理論だということ)

曰く、ものごとを極めようとするとき、守・破・離3つのステップが大事なのだという。

最初は、師匠(大学受験でいえば予備校講師の方々など)の教えを忠実に「守」ることから始まる。(見下したままだとここができない)
次に、その人に教わったもの=型を「破」ってみる。あえて型を破ってみることで、その型の本当の価値がわかるからだ。盲目的に守ったままだと、本当の価値や適用範囲がわからない。
そして最後は、師匠・型そのものから「離」れ、本当に自由なものの見方をしていく。破の段階では、破ってはいたもののまだ「型を破る」という段階、つまり目的語は型のままだ。「破」も目的語という形で型に縛られていた、それすらも超克する段階として、「離」がある。

これが、守破離だ。そしてこの日本古来の成長論は、大学受験という現代の勝負事にもそのまま当てはまるだろう。

予備校講師の方々は、大学受験における先達=師だ。その方々を最初から破ろうとすること・離れていこうとすることは、型の真価を教えてくれる「型破り」ではなく、ただの「型無し」に過ぎない。型がなければ、「型破り」な実力は当然つけることはできない。

個性を出す前に、下手に自分を過信する前に、まずは師を尊敬し師の言うことを守ろう。
誰かを尊敬するには、まず形から入るのが簡単だ。その人が見ていなくても、きちんと「さん」「先生」を付けてしゃべろう。