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三浦幹夫 おじさん。




 ◇三浦

 僕の母親の旧姓は三浦。宮城県と岩手県の県境みたいな所にある室根村が母の生家である。(今は一関市室根町)

 山間部だが、山を越えると気仙沼市。今は岩手県一関市になっているが、岩手の千厩とか宮城の気仙沼あたりは同じ文化圏だろう。言葉の方言も相当似ている。江戸時代になると領地は共に伊達藩。現代の都道府県の境目より歴史的人一体の共感覚がある地域だ。

 宮城、岩手のみならず東北地方には「三浦姓」が比較的多い。関東の名族といわれた三浦一族の子孫や系譜を継いだ人達が渡ったと言われている。
 三浦一族は桓武平氏の流れにある関東武士がルーツ。


 昭和15年生まれ(西暦1940年)生まれの僕の母親は七人兄弟。自然豊かな山々に囲まれた農家。戦前までは地主で多くの小作の人が出入りする賑やか大家族だったらしい。


◇ 僕と みきおじさん

 母親の次の下弟が、三浦幹夫氏。僕にとっては「みきおじさん」だ。

 優しくてかっこいい、みきおじさん!
白バイに乗っていた姿が今でも目に焼き付いている。交通機動隊、警察官だった。今では信じられないことだが、家の前で白バイに乗せてもらったこともある。
僕の地元の花巻警察署にも勤めていたことがあった。僕が小学校の頃だ。

 小学校の頃の思い出といえば、あれは確か運動会の前日にみきおじさんが家にやってきた時のこと。 小学3年だったかな?僕は比較的陽気な振る舞いをしていた子供だったが
あまり、真剣に相談したことや心のうちを漏らしたことがなかった。学校から帰って夕方
みきおじさんと散歩をした。みきおじさんはとても話しやすい。
 「しょっこは、何かお願いことや叶えたい夢みたいなのはあるか?」と聞かれた。
(みきおじさんは、なぜか僕のことを しょっこ、と当時呼んでいた)

僕は、明日の運動会が頭に浮かんだ。

「明日の徒競走で一等をとりたい!」

結構恥ずかしい気持ちだったが思い切り言えたのは不思議だった。なぜ恥ずかしいのかというと、自分がこうしたい!みたい気持ちを吐露するの何故かいけない気がずっとしていたからだ(実は今も願望を口にするのを塞いでしまう性質があったりする…)

みきおじさんは、すぐ反応した。
「よし、大丈夫だ!しょっこなら一等とれる。ちょっとはしってみっか」
僕とみきおじさんの秘密練習は、北上川の土手、里川口から高田方面に向かう所で行った。何回も走ったわけでもなかったが、みきおじさんは「はやい!はやい、これならもんだいない、いいか!ヨーイドンの最初に、とにかくいちばん前に出ることだ」と励ましとアドバイスをくれた。

 僕は、クラスでも決して足が遅くも早くもない真ん中くらいだったと思う。しかも徒競走に関して負けず嫌いでもなかったのであるがなぜかあの時の運動会では一等賞をとりたかった。

 翌日の運動会。僕は徒競走で一等になった。あれは物凄く嬉しかった!
すぐ、みきおじさんに報告したかった。(報告したかどうかは記憶が定かではない笑)

僕が生まれてはじめて一等を手にしたのはみきおじさんのおかげである。


 みきおじさんは、その後随分と偉くなったと聞いた。岩手県警の警部となり地域警察署の交通課長や県警本部の幹部になったようだが、会うときは、いつも優しくてかっこいいおじさんのままだった。


 ◇家

 室根にある母や、みきおじさんの生家「三浦家」は僕にとっても心の故郷みたいな場所だ。毎年、夏や正月となるとたくさんの親戚たちが集まる。「矢越(やごし)」の家と呼んでいた。従兄弟も多く実に賑やかだった。

  母の長兄である、「ひとしおじさん」は博学の人。そのひとり息子が僕の従兄弟にあたる「修ちゃん」。大好きな、矢越の僕のヒーローであった。 その修ちゃんが大学生の時に不慮の事故で亡くなる、、、それはそれはとても悲しい出来事だった。三浦家にとっても悲しみと共に、将来の家督を失うという分岐的なことだったと思う。

 三浦家の屋号は、「山古沢 前の家」。何代続いたのは定かではない。

母親やみきおじさんの父は僕の祖父。それが、「さだおじいちゃん」貞雄さん。
三浦家の墓石に刻まれた人をみると、亡くなった年は明記されていて、歳をひくとだいたいの生まれ年となるとこうなる。

貞雄(さだお)おじいちゃん、
1911年生まれ 明治44年

一徳(かずのり)ひいおじいちゃん、
1889年生まれ 明治22年


廣吉(ひろきち)ひいひいおじいちゃん 1865年生まれ   江戸最後?慶應と明治の境目

喜蔵(きぞう?)ひいひいひいおじいちゃん
1841年生まれ 天保(江戸時代)水野忠邦の天保の改革あたりか、

 となると、まあ古い家柄というのがわかる。三浦一族のどの系譜かはともかく、歴史がある「家」という意味では間違いない。

 母から聞くと、小さい時は地域の小作の人達が寝泊まりをし、面倒をみていた。食べるのも寝るのも家族外の人が優先。家族は後回し。見栄を張っても、よそ様を大事にしなさいという家風だったことだろう。聞いていて、徳のある気品があったように思った。世のため、人のために。立派なご先祖さま達だ。

 その血脈は受け継がれた気がする。

母親の兄弟姉妹は、とても心遣いがある。母を見ててもよくわかる。外に対しての振る舞いに独特な優しさとおせっかい(笑)がある。




◇ みきおじさんの新たなスタート


 岩手県警を退官し、みきおじさんは、三浦の家督となり、生まれ故郷の矢越に移住した。

 こうして、みきおじさんの新しい人生は、室根村矢越から始まった。

 みきおじさんが室根の地域活動にどれだけ熱心にやっていたか、殆ど知らなかった。僕が東京に出て社会人となってからは、会う回数もメッキリ減ったし、親戚付き合いも薄くなった。

 みきおじさんから、「森は海の恋人」の活動を聞くことになったのも植樹祭のことを知ったのも活動が始まって、時間が経過してからだった。しかし、今思うと僕が「川」や「流域」、「地形」「木」「土」「水」「海」 自然の循環…に関心を持つきっかけになったことは間違いない。


 「森は海の恋人」とは実にいいネーミングだ。牡蠣の森を救う会、植樹祭は平成元年から始まった。

 森が室根地区、海が気仙沼市唐桑舞根。

NPO法人森は海の恋人 理事長畠山さんと共に、植樹祭を室根地区自治会長 三浦幹夫叔父が中心となって推進してきた。

 みきおじさんにとって、地域での活動はライフワークだったのだろう。地域社会を豊かなものにするために邁進されたのだと思う。
三浦という姓も一族も大事だったから、家督となり、矢越も室根も愛したからこそ、地域活動に精を尽くし、自然を地球を大事にしようという思いから植樹祭に情熱を傾けた。

 令和5年に一関市から功労賞を授与し、本年令和6年一月に盛大な祝賀会も行われたという。たくさんの人に尊敬された証だと思う。昨日の葬儀では、改めて様々な活動に従事されていたことを知った。心から尊敬する。

 令和6年4月4日、享年78歳…永遠の別れとなった。


 みきおじさんと最後に、二人でたっぷりと話したのは、親父の葬式前日だったか、
2019年8月のことだ。あれから数回、話す機会があったが、もっともっといろんな話しをしておけばよかった、、、悔いはあるが、
優しくてカッコいい、みきおじさんは僕の心にずっと残る。

みきおじさんありがとう!
安らかに。
合掌

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追記
2024年6月23日
岩手日報 記事写真より

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