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占い、宗教、自己責任論

 先日、小山晃弘氏が占いに関してのnoteを公開した。

 こちらでは女性が占いを好きになるメカニズムについて述べているが、しかし、占い以外のジャンルでは男女差が見られないものもある。

「宗教を信じる」「超能力を信じる」という質問項目ではほとんど男女差が見られない。

 無料部分しか読んでいないので詳細は分からないが、恐らく男性は自己責任論を大事にするため占いを嫌うのではないかということだろうと思われる。すなわち、自分がなぜ失敗したのかというような自分の状況の原因を自分の行動に求めるということだ。一方で女性はいわゆる「他責性」があり、自分の状況等の原因を他人の行動に求める。このような違いがあるからこそ、男性の自殺者が多くなり女性は(フェミニズムのような形でなくとも)社会的な機関に訴えることが多いのだ。

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 話が逸れてしまったが、この「他責性」、実は女性だけのものではないのではないかというのが今回のテーマである。
 以下、説明しよう。


宗教を作ったのは大抵男性

 小山氏も指摘しているが、宗教を作ったのは圧倒的に男性が多い。つまり男性は非科学的なことを嫌うという言説の反例に当たるのだが、それだけではない。
 キリスト教でもイスラム教でも(仏教は少し違うが)程度の差こそあれ、神が絶対であることを唱えている。

 このような宗教を作ったのは、恐らく幸福ではない世の中を少しでも幸福にしたいという気持ちからだろうが、それを信仰する人は一体どのような心情から信仰したのだろうか。少しでも幸福に生きたいからというのもあるかもしれないが、それ以上に「救い」を求めていたのではないか。


「救い」とは何か

 「救い」とは、言うまでもなく、自分が救われることである。

 例えば飢餓や争いなどによって自分の大切な人の命が奪われてしまったとき、その大切な人は天国という飢餓も争いもない理想郷にいるのだという物語があれば少しは救われるであろう。それは既に亡くなった大切な人だけではなく、これから訪れる死に怯える自分自身への救いでもある。「救い」とは飢餓を癒やす食糧や水、争いをなくすものなどではない。既に現世で「救われなかった」人々が死後に天国に行くという形で救いの物語を作るのだ。これは自己責任論とは関係ないため、宗教を信仰する人に男女差がない。

 もう一つ、理不尽な世の中の原因を作るという側面もある。例えばどんなに働いても報われず、生活は苦しいまま。かと思えば大して働いていないのに裕福な暮らしをしている人もいる。この理不尽の原因を考えるとき、人はしばしば「因果応報」を唱える。つまり、それまでの行い(あるいは前世での行い)が理由で現状があるのだという考え方だ。
 源氏物語の光源氏誕生の章でも次のような表現がある。

先の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子をのこみこさへ生まれたまひぬ。

訳 : (光源氏の両親である桐壺帝と桐壺の更衣が)前世でも深い因縁がありなさったのだろうか、この世に例のない程美しい男の子までもがお産まれなさった。

源氏物語「御子誕生」
(訳は筆者)

 光源氏が美しく産まれたのは両親である桐壺帝と桐壺の更衣が前世でも縁があったからではないか、という表現が自然に入っている。当時の日本は仏教の影響を受けていたので、「輪廻転生」という考え方が根付いていたためであろう。この輪廻転生は因果応報と深い関係があるように思われる。


因果応報と自己責任論

 人は誰しも、多かれ少なかれ良い行いをすれば報われ悪い行いをすれば罰が当たって欲しいという気持ちを持っている。もちろん必ずしもそうなるはずはないのだが、それでも我々は現状に「理由」を求めたがる。その一つが、前世の行いによって現状が定まるという輪廻転生の考え方だ。仮に現状が理不尽でも、「前世で悪いことをしたんだな」と割り切ることができれば少しは救いになるかもしれない。
 これも広い意味の自己責任論で、「来世で良い人生になれるように良いことをしよう」と考えることもある。これは広い意味での自己責任論と言えるだろう。


自己責任論に対するもの

 王権神授説というものがある。人権は全て神が授けたものであるという思想で、絶対王政の根拠となっている。このように神を絶対の存在とする思想は、自己責任論とは対をなすものであろう。

 もっと自己責任論から離れているものもある。それは恩寵予定説だ。我々が何を選択しどう行動するかは全て神の采配によって決められているという思想だ。つまり我々がどんなに努力しても神の決めた予定は変えられないという、いわば努力の否定である。

 宗教の多くは男性が作ったものである。その宗教でこのような考え方が生じたということは、男性にも少なからぬ他責性が存在するということが窺えるだろう。もちろん女性に他責性があることは言うまでもないのだが。

 とはいえ、他責性を持つことそれ自体は悪いことではない。重要なのはそのバランスである。

 我々は適度に自責と他責を使いこなしていく必要があるのだ。


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