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【エッセイ】本屋にレシートを並べて売ろう ―「物語」をぶっこわして再定義してみる―

今回は私自身もあまりよく分かっていない話です。「変なこと言ってんな」と思いながらお読みください。


「物語」とは何か。

偉そうな名前の偉人は「物語」をこう定義している、などと大仰に語ってみせればインテリを気取れるが、「物語」をまともに定義している人間はいないと私は思っている。そんな人物がいれば、今の「物語」はこのような形にはなっていないからだ。

「物語」についての研究は、古くから行われている。紀元前、古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、『詩学』の中で物語について論じている。現代ではウラジーミル・プロップによる『昔話の形態学』から始まる構造主義の発展に伴って、物語の構造を研究する「形態学」が盛んになった。

しかし残念なことに、そうした研究が「形態学」から発展することはなかった。例えば、プロップが昔話の中に見出したパターンは、確かに分類できることを示している。しかし、形態の差異の背景にあるのは、物語が人を介して伝わるたびに変化・分岐するという性質である。

どこかの国が戦争に勝って残った物語もあれば、滅んで消えていった物語もあるだろう。口伝しかないために継承者がいなくなって消えた物語は当然あるし、文字に記録されたとしてもその媒体が残っていなかったり土に埋まったままならば、物語は残らない。

現存する最古の物語は、およそ4000年前にメソポタミアで成立した『ギルガメシュ叙事詩』と言われている。つまり、この神話が粘土板に楔形文字で刻まれる以前の物語は、現代に残っていない可能性がある。

つまり、今現在、目の前にある物語群の進化系統樹は、多くの偶然性を含んだデファクトスタンダードであり、そこから必然性を導くべきではないのである。

例えば、現在の地球上において、多くの真核生物の細胞にはミトコンドリアという細胞内小器官(オルガネラ)が存在する。これは現在生きている生命の祖先の細胞内にミトコンドリアの祖先が共生していた名残と考えられている。ミトコンドリアと共生することで、酸素を吸ってATPというエネルギーを産生できるというメリットが生まれたのだ。

そうした優位性が真核生物の祖先にあったとは言えるが、優位だからといって必ずしも生存競争に勝てるとは限らない。世界は確率で構築されている。ホームラン王を獲る実力がある選手でも、もし通訳に金を盗まれていることが分かったらホームランが打てなくなるという事象も発生しうるのが、この世界である。ミトコンドリアよりもエネルギー効率が良いバクテリアと共生している別の生物が存在していた可能性も、十分考えられる。

これを「物語」に置き換えれば、現代の「物語」の祖先はいわゆる神話の構造、英雄譚の構造を持っていたと考えることができる。他に現存するのは、紀元前6世紀頃と思われる『イソップ寓話』などの寓話や民話、伝承くらいだ。これらの祖先から分岐して、プロップが分類したように複数の構造が生まれた。

これは「物語」がそうあるべきだからそうなったのではない。人類の生存戦略においてある程度有用だったからか、生存戦略に大した影響がなかったからだ。偶然の産物として、神話構造を好む神経回路をもつ人々が大多数となっているにすぎない。

要するに「物語の形態学」の中に「物語のコード」はない。厳密には「物語のコード」に基づいて実行された試行回数=1の結果であり、統計的有意性はないのである。

「物語」という言葉の定義を、小説だけでなく、寓話や童話、漫画、映画、劇、落語、コント、SNSのバズった投稿にまで広げてみたところで、「物語のコード」によって生まれる物語の形態の全てを網羅しているとはいえない。

既成概念を取り外して考えよう。現代の我々が、およそ物語だとは思っていないようなモノ、例えばレシート、確定申告の書類、バーコード、時計、信号機、道路標識、郵便ポスト、ペン、リュックサック、ランニングシューズ、パソコン、スマートフォン、その他の様々なモノも「物語」と呼べるかもしれない。

それは言い過ぎだと思った読者も多いだろう。しかし考えてみてほしい。郵便ポストは、人々が郵送したい物をわざわざ郵便局まで届けなくても済むように配置されたモノである。であれば、郵便ポストが1メートルおきに置かれているということはほぼありえない。おそらく人口密度や範囲に応じて、それなりに回収効率がよくなるように配置されているはずである。であれば、その郵便ポストの配置から読み取れる「情報」が存在する。つまり郵便ポストは、二次元的あるいは三次元的な「物語」である可能性がある。

別の例え話をしてみよう。もし遠い惑星で異星生命体が発見され、探査機がある一定範囲ごとに配置された「構造物」を発見したとする。この時、研究者はその「意味」を真剣に考えるだろう。「もしかしたら別の生命体へ向けた地上絵かもしれない」なんて意見も出てくるはずである。「意味」が表現されうるのであれば、そこには「物語」も存在する可能性がある。

私が議論しているのは、そういうレベルの「物語」である。

この考え方は、現代アートに近いかもしれない。マルセル・デュシャンは、既製品である小便器にサインを入れて、芸術作品として展示した。そこから「これは芸術なのか?」=「芸術とはそもそも何なのか?」という大論争が生まれた。それをきっかけとして、様々なアーティストが芸術という概念の枠を拡張していった結果、様々な形態のアートが生まれるに至っている。

しかし小説の分野は、なぜかそうした現代アートの文脈から取り残されている。もしセブンイレブンのレシートを文学賞の公募に出したら、どう評価されるだろうか? ほぼ間違いなくイタズラだと思われて、相手にすらされないだろう。次回からは、応募者の名前だけで弾かれる可能性もある。そこに本来の「文学」はあるのだろうか。もっと間口の広い文学賞があってもいいと私は思う。(そう考えてみると、anon pressさんのやっていることは先進的だなと思う。前衛的で、正直ちょっと私もついていけないなと思っていたのだけれど、あのくらいの推進ブースターが必要なのかもしれない)

本屋にレシートを並べて売ろう。半分は冗談だが、半分は本気である。


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