見出し画像

【短編】お祭りの日にガラスの中で走れ

著:葦沢かもめ

**********

 ただ、知られていないだけ。


「いや、私はVRには詳しくないんですよ、伊藤先生。趣味で3Dモデリングをやってるだけで」
「同じようなもんだろ。少なくとも一番詳しいのは及川だ。実行委員をやれるのは及川しかいない。頼む。緊急事態なんだ」
 パソコンの画面の向こうで、伊藤先生は私を拝むように手を合わせ、額が机につくくらいに頭を下げている。もう六限の授業が終わってから三十分が経っていた。
「……仕方ないですね」
「やってくれるか! じゃああとで実行委員会のグループに招待しとくから。ありがとな!」
 プツンと通話が切れるや否や、ポップアップがメールの到着を知らせた。
「Fwd: Fwd: 第一回バーチャルこままね祭り実行委員会について」
 伊藤先生から転送されてきたメールを開いて、内容を流し読みする。
 夏の恒例行事、こままね祭りが、昨今の社会情勢の影響で、今年初めてバーチャル空間上で開催されること。
 こままねマラソン大会もバーチャル空間にて実施するので、全校生徒は参加すること。
 例年通り、各クラスから実行委員を一名選出すること。
 大体、そんな感じの長くてかったるい文章だった。私は、マラソン大会までバーチャルでやらなくてもいいじゃん、と思った。
 こままね祭りは「駒の真似」、つまり馬の真似をして村々へ祭りの知らせをして周ったのが由来である。それを現代風にアレンジして始まったのが、こままねマラソン大会だ。参加者は、それぞれ思い思いに馬をモチーフにした仮装をして走る。馬の頭の被り物でもいいし、後ろに飾りの脚を付けて四本脚にするのでもいい。要はコスプレマラソン大会である。ちなみに私は毎年、馬印の鉢巻きで誤魔化している。
 メールの最後に、実行委員会会議の初回開催日時と、Web会議への招待URLが記載されていた。
 伊藤先生が言っていた「グループへの招待」というのは、多分これのことだろう。あの人はIT音痴だ。
 でも、だからといって3DモデリングとVRを一緒にされてはたまらない。陶芸と茶道が一緒だと言われているようなものだ。
 私が好きなのは3Dモデリングであって、VRではない。
 でも、私がやりたいことは誰にも理解されていない。
 

 ただ、知られていないだけ。だと思う。


 スマホの画面に映し出された伊藤先生からの返信は、思ったより簡素だった。
「実行委員の及川に伝えたので、詳細は及川から聞いてください」
 それだけだった。
 私は不安で胸がきゅっとなる。左の拳で掛け布団を掴んで、胸の支えをなんとかやり過ごす。ベッドが少しだけ軋んだ音を立てた。
 及川さんとは、あまり話したことはない。今の私にとって、気軽に相談できる相手ではなかった。でもよく考えたら、そもそも気軽に相談できる相手なんていなかった。
 くよくよしていても仕方がないので、枕元のスマホで学校のポータルサイトからクラスのメンバー一覧を開き、及川さんのアカウントを探す。見つけた名前の横にある「メール作成」ボタンをタップすると、新規メール作成画面が開いた。私は一度深呼吸をしてからメールを打ち始める。しかし入力を何度も間違えて、そのたびに削除キーをタップした。
 打つ。削除。
 打つ。削除。
 おかしいな、と思って手元に目を遣ると、私の親指は死にかけのゴキブリの脚みたいに震えていた。
 まだクラスの誰にも伝えたことのない話。
 みんなには隠したままでいたかった話。
 目の前に文章という形で現れたそれは、白い背景に描かれた黒い線の集合体でしかないはずなのに、私の心は浜風に吹きつけられた松の防風林みたいに激しく揺さぶられていた。
 本文が出来上がると、勢いに任せて送信ボタンを押した。スマホはそのまま枕の傍に放り投げ、枕元のリモコンで電灯を消す。
 削除。
 以前までは夜中に布団の中でスマホを握り締め、SNSで呟いたり、いいねを押すのが日課だったけれど、最近はスマホの電源すら入れていない。掛け布団を頭まで被って、夢の無い眠りに落ちていけるように祈った。
 削除。
 九十九里の遠浅の海を、ゆっくりゆっくり沖へ歩いていく。膝を洗っていた波が、腰を越え、胸を越え、やがて私の頭まで到達する。
 息苦しくなって海面へ上がろうとするけれど、その時にはもう海底は私の足の裏を離れ、日本海溝への大きな口を開けて待っている。
 削除、できない。させてくれない。


 まだ知られていないだけ。これから知られるだけ。


 私の学校用メールソフトの受信トレイに、見慣れない差出人の名前があった。
「From: 宇野」
 宇野さんは、最近お休みから復帰していたはずだが、しかし何の用件だろう。と思ってから、ふと思い出した。昨日、伊藤先生に「井野から連絡があるから」とメールで言われていたのだ。井野って誰だろうと思っていたが、多分宇野さんのことだったのだろう。
 私はメールを開封する。


「お久しぶりです。宇野です。

 うっかり交通事故で下半身不随になり、しばらくお休みしていましたが、遠隔授業になったので、最近は授業を受けています。

 本題に入りますが、及川さんがバーチャルこままね祭りの実行委員になったと伊藤先生から伺いました。

 私は陸上部で長距離をやっていて、昔から陸上競技の選手になりたいと思っていました。

 しかし今は、頭の中で脚を動かすイメージをするリハビリを毎日毎日、嫌というほどやっても、私の脚はピクリとも動きません。もう走ることも歩くこともできないのかもしれません。

 でもバーチャル空間でなら、また走れるかもしれないと思いました。

 私もバーチャルこままねマラソン大会で走ることはできますか?
 VRが得意な及川さんなら、なんとかしてくれると信じています。

宇野」


 私は驚いていた。宇野さんが交通事故に遭ったことも、下半身不随になっていたことも知らなかった。クラスでは、宇野さんは親の都合で海外に行っていたと説明されていたからだ。
 その衝撃を受け止められていなかったが、一方でその短い文章の中に秘められた宇野さんの静かな情熱を感じ取っていた。
 それはまるで深海でも消えずにゆらめく蝋燭の炎みたいだった。私は酸素ボンベを背負っているのに、目の前の宇野さんは何も付けず、無表情で、ただ深海へと沈んでいっている。その手に握られた蝋燭の炎は、なぜか消えることなく、光も届かず底も分からない深海の秘密の部屋を照らしている。
 その宇野さんが水面の上に顔を出してみたいと言うのなら、手を貸さない訳にはいかない。酸素ボンベの続く限りは、引っ張り上げてみようじゃないか。私の指は、迷いなくキーボードを叩く。


「私はVRが得意なのではありません。3Dモデリングが好きなだけです。

でも、宇野さんがまた走れるようにお手伝いします。
しばらくお待ちください。

及川」


 私がまだ知らないことは、沢山ある。


 及川さんが家に来たのは、あれから一週間ほど経った土曜の午後だった。私は、いつもの部屋着ではなく、外行き用の白のシャツとジーンズを着て、車椅子に座って待機していた。
 玄関から応対する母の声が聞こえる。
「あらまあ、お土産なんて要らないのに。しっかりした子ね」
「あっ、すみません! これ実はお土産じゃなくって……」
 そんなやり取りの後、母に案内されて及川さんが私の部屋にやって来た。地元の菓子屋の屋号の入った紙袋を手に提げている。
 母はお茶とお菓子をローテーブルに置いて、そそくさと部屋を出て行った。機械音痴の母は、自分が邪魔になると踏んだのだろう。
 及川さんが紙袋から取り出したのはお菓子ではなく、ゴーグルみたいな機械と、マラカスみたいな2つの機械だった。
「これはヘッドマウントディスプレイと、コントローラ。学校がレンタルしたやつ」
 そう言って、及川さんは丁寧に使い方を教えてくれた。
「このスティックを前に倒せば、仮想空間の中で前に進める。やってみて」
 言われるがまま、ヘッドマウントディスプレイを頭に装着する。アニメではよく見るけど、実際に付けるのは初めてだった。ヘッドフォンを付けるのと、感覚的にはあまり変わらない。
 だが視界は一変した。私の部屋は、地平線まで広がる草原になっていた。空には紫色の雲が浮かび、朝の訪れを告げている。煌々と輝く朝陽が薄く広がる靄に散乱し、大地に生命を吹き込む。不意に自分の体を見回してみると、私の体は鋼鉄製のロボットになっていた。だからだろうか。朝露のすーっとなる匂いがしない。
 恐る恐るコントローラのスティックを親指で倒す。すると私の機械の右脚が振り上げられ、前に向かって降ろされた。それから左膝が宙を蹴り上げ、続けて左の足裏が地面に着いた。草原を踏み締める音はするけれど、機械の脚が冷たい朝露で濡れる感覚も、柔らかい土を踏み締める感覚もない。
「動いた」
「本来なら、脚にモーションキャプチャを付けて、実際の動きをバーチャル空間に連動させるんだけど」
「及川さん、やっぱり詳しいんだね、VR」
「勉強したんだよ。将来はゲーム会社の3Dデザイナーになりたいから、知ってて損はないし。ほら、走ってみて」
 不機嫌そうな声の及川さんに促されるままに、私は走り出した。どこまでも続く草原を、空のキャンバスを燃やしてしまいそうなくらいに輝く朝陽に向かって走った。自分の胴体に繋がった脚が動いているのは、懐かしさがあった。
 でも、不思議と喜びは感じなかった。
「どう?」
「歩けるのは嬉しいけれど、ボタンを押すだけで歩けてしまうから、ゲームみたい。本当に歩いているっていう実感はないかな」
 せっかく善意でお手伝いをしてくれたのに、こんな言い方はまずかったな、と後悔したけれど、及川さんはむしろ嬉しそうな声で答えた。
「そう言ってくれると信じてた。それ、外して」
 言われた通りに私はコントローラを置いて、ヘッドマウントディスプレイを外す。及川さんは紙袋から、小物入れくらいの大きさの箱とカチューシャのような機械を取り出していた。
「この箱はシングルボードコンピュータ。要はミニパソコン。で、こっちは脳波計」
「脳波計なんて、どこで手に入れたの?」
「ネット通販で買えるよ。案外安い」
「ふーん。で、どうするの?」
「実際に脚を動かすイメージをした時の脳波のシグナルを、深層学習モデルでモーションに変換して、バーチャル空間のアバターの動きに反映させる。そうすれば、自分の体を動かす感覚でアバターの脚を動かせる」
 そう説明しながら、及川さんは脳波計から伸びたUSBケーブルをミニパソコンに接続した。ヘッドマウントディスプレイも、ミニパソコンに繋がれる。ミニパソコンの上面に備え付けられた小さいタッチパネルに黒いウインドウが映し出され、英語が高速で流れていく。
「そんなことできるんだ」
「作ってみたら、意外とできた」
「自分で作ったの!?」
「既製品とネットの情報を繋ぎ合わせただけだよ。大したことはしてない」
「十分すごいよ。少なくとも私にはできない」
「まだ使い物になるかは分からないけどね」
 及川さんがヘッドマウントディスプレイと脳波計を差し出す。
「付けてみて」
 まずは頭頂部にカチューシャのような脳波計を付けた。付け心地は悪くない。その上からヘッドマウントディスプレイをバンドで頭に固定する。さっきより少しきつくなったけど、装着に問題はなかった。
「まずは、脚を動かすイメージをしてみて。宇野さんの実際の脳波でモデルをチューニングするから」
 及川さんの指示にしたがって、右脚、それから左脚を動かすイメージを繰り返した。リハビリの時みたいに、やっぱり私の脚は動かない。
 でも及川さんは、ミニパソコンのディスプレイを眺めながら、満足そうに頷いていた。
「これでOK。じゃあ実際に試してみよう」
 また私は、朝靄の広がる草原に放り出された。
 試しに、右脚をゆっくり上げるイメージをしてみた。すると驚いたことに、機械の右脚がぎこちなく上がった。バーチャルだけど、でも私の脚が動いた感覚が確かにあった。
「すごい! 私の右脚だ!」
 そのまま前に降ろして体重をかけ、左脚を振り上げる。
 歩けた。
 私がまた歩いている!
「ちょっと待った」
 及川さんの手が私の両肩を掴む。気が付くと、私は車椅子の上で前のめりになっていた。
「現実とのバランス感覚が課題かもしれないけど、バーチャル空間で歩くのは上手くいったみたいだね」
「うん! ありがとう!」
 私の目の前を覆っていた深海の暗闇の中に、一匹のアンコウが仄かな光をもたらしてくれた気がした。
 バーチャル歩行に慣れるのに、あまり時間はかからなかった。竹馬で歩けるようになるのと、なんとなく似ている。アバターの脚の先まで自分の神経が伸びたような感じを掴んでからは簡単だった。
 でも逆に、そのせいで違和感も感じるようになった。
「なんか、自分の実際の脚よりアバターの脚が長いから、感覚がちょっと変」
「そっか。確かにそれはあるかもしれない。盲点だった。じゃ、専用のアバター作るよ」
「えっ、アバター作れるの? それに大変じゃない?」
 驚く私に、及川さんは笑いながら答えた。
「私の趣味は、3Dモデリングだよ」


 ついうっかり、忘れていた。


 太陽が地平線の向こうに沈もうとしている。宇野さんの家からの帰り道、どこまでも広がる田んぼを突っ切るようにして、細いアスファルトの道路が伸びていた。私以外に歩いている人などいない、THE・田舎道。手に提げた紙袋は、デバイス類が無くなった代わりに、宇野さんのお母さんから貰った自家製ミニトマトとキュウリで重たくなっていた。こころなしか、スーパーの野菜よりでかく見える。それから、宇野さんにアバターのデザインを描いてもらったルーズリーフも入っている。これを使ってモデリングをするのだ。
 私は、ほっとしていた。宇野さんが、自分の脚で歩くことを諦めていなかったのが嬉しかった。夢を諦める手伝いをしたくはなかったのだ。
 だが、アバターのモデリングをすることになるとは思っていなかった。見栄を張って引き受けてしまったが、実際は、宇野さんの要望したアバターを作れる自信が無かった。確かに3Dモデリングについての知識と技術は、ある程度身に付けているつもりだ。
 しかし、未だに丸みのある物体のモデリングが苦手なのである。私の頭の中にある理想的な曲面が、どうしても作れない。ポリゴンが私の言うことを聞いてくれないのだ。
 陽が落ちる前に、家の玄関に着いた。
「ただいま」
 紙袋を置いて、靴を脱ぐ。その時、運悪く外出する父と鉢合わせしてしまった。サイアク。
父は目ざとく紙袋を見つけて、中を覗く。
「買い物じゃなさそうだな」
「お祭りの実行委員の仕事」
「そんなことやってたら国立なんて行けないぞ。勉強しろ。分かってるだろうが、国立以外は認めんからな」
「はいはい」
 こっちこそ、いつまでもこんな田舎に引き籠っているなんて願い下げだ。
 まだ文句を垂れている父を放って、さっさと自分の部屋に入って鍵を閉める。
 その後でミニトマトとキュウリの入った紙袋を持っていることに気付いたが、適当に放り投げた。台所に持っていくのは後にして、そのまま勉強机の椅子に腰を下ろす。
 机の上の半分はディスプレイで占領されていて、もう半分は専門学校のパンフレットが陣取っていた。進路指導室でもらったものだ。それによれば、どこの専門学校もリモート授業が多く、通学は週一回が多い。都内の専門学校だと始発電車で実家から通わされる羽目になりそうだから、関西に行くしかないなと考えていた。どっちにしろ父は鬼のように怒るだろうが。
 パンフレットを畳んで本棚に押し込んでから、キーボードのキーを適当に叩く。
 デスクトップパソコンのスリープが解除され、立ち上げたままの3Dグラフィックソフトのウインドウがディスプレイに表示された。フォルダを開いて、古いファイルを読み込む。
 ローディングのアイコンがくるくると回ること、数秒。
 黒い空間に、ニケの胸像みたいに四肢の欠けた人型の3Dモデルが浮かび上がった。練習用に作り始めたが、限界を感じて放置していた問題作だ。
 マウスで掴んで、こねくり回してみる。腹のメッシュが粗い。上腕が長すぎ。気になる箇所が出てくる、出てくる。
 自然と溜息が漏れる。私は3Dデザイナーになれるんだろうか。
 それとも誰にも知られることのない田舎の籠の中に閉じ込められたまま、誰にも知られることのない人生を送るんだろうか。
 その時、スマホが通知音を鳴らした。宇野さんから写真が届いていた。等身大のアバターを作るために写真をお願いしていたのだ。できれば三面図が欲しかったが、面倒なので怪我をする前の立ち姿の写真を何枚か要望しておいた。
 写真を見ると、陸上大会で走っている姿が多い。親に撮ってもらったんだろうか。
 宇野さんの走り姿は、新鮮だった。走っている宇野さんを見るのが初めてだというのもあったが、周りが苦しそうな顔をして走っている中で、楽しそうに笑みを浮かべているのが印象的だった。
 きっと、それだけ走るのが好きなのだろう。そんな宇野さんが走ることを奪われた悲しみは、私には想像できない。
 もがいてももがいても足が地面を蹴ることはなく、光の無い深海で上に手を伸ばすことしかできないのだ。希望を照らし出す蝋燭の炎を抱えたまま。
 でも私は、手を動かしてモデリングができる。まだ諦める訳にはいかない。
 宇野さんのアバターの全身像をイメージして、私はメッシュの頂点の配置に取りかかる。


 走る姿を想像すると、私は胸が高鳴った。


 大会は何度も経験しているけれど、こんなに緊張する朝は初めてだった。起きた時から目が冴えているし、胃がチクチクして食欲がない。
 そんな私の心境が母にも伝わったのか、朝食は醤油の焼きおにぎりとリンゴジュースだった。陸上の大会の朝は、いつも必ずこの朝食を作ってくれる。地元の醤油の香ばしい香りで、浮ついていた心が少し落ち着くのだ。
 食べ終わってご馳走様をしてから、大会会場である自室へ向かう。
「応援してるよ」
 お母さんの言葉に、私はニッコリ頷いた。
 車椅子を転がして私の部屋に入り、広く空間を開けてある中央に停める。
 まだ開始時間までは猶予があったけれど、最終確認のためにヘッドマウントディスプレイを頭に装着した。こままねマラソン用のワールドは既に公開されていて、参加者が徐々に集まりつつあった。皆、アバターに凝っているらしく、馬頭人間やらケンタウロスやらがいっぱいいる。アバターだから、外見だけでは誰なのか分からない。
 バーチャルのマラソンコースは、実際のコースを元に作られている。小学校を起点に、市の中心部を周って小学校に戻ってくる行程だ。私が居る場所も、実際のスタート地点である小学校のグラウンドを模して作られていた。
 でもバーチャルらしさも盛り込まれていて、カメラマンのアバターが空中を飛び回り、ライブ映像を映し出すクジラの飛行船が空に漂っている。ちょっと奇妙だけど、大会会場独特の空気を久しぶりに感じた。
 私は、自分にしか見えないプライベートミラーを呼び出し、自分の体をまじまじと見つめる。下は赤のジャージで、上はグレーのウインドブレーカー。頭にはデフォルメした馬の顔が描かれたフードを被っている。私のリクエスト通りに及川さんの作ってくれたアバターは、驚くほど私の体に馴染んでいた。
 そう言えば、及川さんにはこの姿をまだ見せていない。今日は会えるだろうか。早くびっくりさせてやりたい。
 その時、誘導係から整列するように声がかかった。
 

 私は、スタートラインに立った。


 誰もいない小学校のグラウンドに、人影は私一人。朝の穏やかな陽光が、東の空から私をスポットライトのように照らす。校庭に植えられた青々とした樹々は、朝の清々しい風に枝葉を揺らし、私を歓迎するように拍手する。
 本来なら、この時間にはこままねマラソン大会のワールドに入って、通信が不安定になっている参加者がいないか確認する係をしているはずだった。
 しかし今朝、いきなり部屋に入ってきた父に、机の上に広げていた専門学校のパンフレットを見られてしまった。烈火の如く激昂する父を前にして、私は家を飛び出すことしかできなかった。
 そして気付くと、この場所に辿り着いていた。
 小学校の校舎の屋上にある時計台を見上げる。そろそろマラソンが始まる時間だ。仮想世界では沢山の参加者がこの場所に立っているはずだが、今ここにいるのは、校庭の隅で囁いているスズメ達と私だけだ。
 まるで深海で久しぶりに他の生き物に出逢ったような気分である。この深海の息苦しさを共有できる他者がいるだけで、心が少しだけ軽くなる。
 そうか、私も深海にいるのか。
 咄嗟に酸素ボンベのメーターを確認する。残量は、あと僅か。酸素が薄くなり始め、焦りが私の理性を溶かしていく。
 どこかで号砲が鳴った気がした。


 その瞬間、私は馬のように駆け出した。


 校門をくぐり、小学校の前の道を左へ進む。隣の私立高校の前を過ぎた角で、コースは右へ曲がる。
 その道の両脇には長閑な田んぼが広がっている。田んぼには櫓が建てられており、その上で太鼓が軽快なリズムを刻んでいる。太鼓の震動と共鳴するように、心臓が拍動していた。力の限り脚を振り上げていたけれど、その間、私は次々に追い抜かれていた。このままだとビリになるかもしれない。
 田んぼを抜けた先の角で右へ曲がる。この道は商店街のメインストリートになっている。商店街はこままね祭りのイベントや出店で大盛況だ。特設ステージの上では陽気なお囃子が鳴り響き、道に面した広い駐車場には神輿が繰り出していた。大きな掛け声と共に、神輿が荒波のように乱舞している。
 その途中、私は歩いていたおじさんと肩がぶつかってしまった。
「大丈夫か? どうしたんだ、そんなに急いで」
 おじさんが心配そうに私の顔を覗き込む。朝の人のまばらな商店街の静けさが、私の理性を押し流す。私は慌てて「すみません」と謝って、すぐにその場を立ち去った。
 恥ずかしくて、顔が燃えるように熱い。最近はシャッターを下ろしたままの店も目立つけれど、今ばかりは助かったと思った。
 商店街を抜けるとともに、通勤の車が増えてくる。ここは国道と並行に走るバイパスになっている。自動車に負けじと、私は疲れてきた両脚に力を入れて速度を上げた。
 八幡様の前の角で右折して、裏道へと入っていく。この辺りは静かな住宅街になっているが、家々は電飾で飾り付けられており、屋根の上でご当地ヒーローや市のゆるキャラを含め、十人十色のアバターが踊っていた。私はすっかり最後尾になってしまっていたが、そんな私にも沢山の温かい応援の声が屋根の上から降り注いだ。こんなに楽しいマラソンは、生まれて初めてかもしれない。
 そんな夢のような時間も束の間、ゴールまでの道のりは、あと僅かとなってしまった。沿道からの歓声は次第に大きくなっていた。ゴール会場から響いてくるアナウンスの声も近付いてきた。残るランナーは、私だけらしい。
 私は、残った力を振り絞って太腿で宙を蹴る。ゴールテープが見えた。ゴールし終えたランナー達も、私に声援と拍手を送ってくれている。まるでスポットライトを浴びたような気分だ。汗だくになりながらも、私は一歩一歩、確実に前へ進む。
 あと少し。
 私は滑り込むようにしてゴールテープを切った。同時に、打ち上げ花火のような大歓声が鳴り響く。
 ゴールできた。その喜びが、じわじわと私の全身を包み込んでいく。気が付けば、私は大粒の涙で前が見えなくなっていた。ビリなのに嬉しいのは初めてだ。
 小学校の校門の前で、私は息を切らしながら涙を拭いた。


 今日が私にとって忘れられない日になったことは、まだ誰も知らない。


 バーチャルこままね祭りが無事に閉幕した次の週の土曜日。
 私は宇野さんの家の前に立ち、インターホンを鳴らした。
「はいは~い」
 宇野さんのお母さんが玄関を開けた。
「機器の回収に来ました。あと、これどうぞ。先日のミニトマトとキュウリ、美味しかったです」
 私は、菓子屋の紙袋からどら焼きを取り出して渡す。
「ありがとう。気が利くいい子だね。さ、上がって」
 私は宇野さんの部屋に通された。
「久しぶり」
 部屋の中央に停められた車椅子の上で、宇野さんは出迎えてくれた。貸していた機器は、ケーブルを結束バンドで纏めた状態でローテーブルの上に並べられていた。
「マラソンは、どうだった?」
「楽しかった! とっても!」
 宇野さんの顔に、満開のヒマワリのような笑顔が咲いた。
「手助けになれたのなら良かった」
「及川さんの作ってくれたアバター、大好評だったよ! 皆、及川さんに作って欲しいって言ってた」
「そっか。でももう辞めちゃったから」
「えっ! どうして?」
「父に反対されてね。パソコンも取り上げられちゃった。仕方ないんだ。国立大学に行った方が良いって、自分でも分かってたから」
「本当に、それでいいの?」
 無言のまま、私はヘッドマウントディスプレイや脳波計を紙袋へ収めた。
「3Dデザイナーになるのが夢なんじゃないの?」
 その宇野さんの言葉に、悔しさが胃の底から込み上げてくるのをどうにか堪えた。声を上げて泣き叫ぶ代わりに、私は小さく「うん」と頷いた。
「そう言ってくれると信じてた」
 すると宇野さんは、おもむろに車椅子から腰を上げた。
「えっ!? ちょっと――」
 私は宇野さんの体を支えようと手を伸ばしたが、すぐに止めた。宇野さんは、自分の足でしっかりと立っていた。嘘みたいな、本当の光景だった。
「少しくらいなら歩けるよ」
 ゆっくりとではあるが、宇野さんはその場で足踏みまでしてみせた。
「初めから歩けたの?」
「ううん。全然歩けなかったよ。でも及川さんのくれた脳波計をつけてバーチャル空間の中で走る練習をしていたら、それがリハビリになったみたいで、少しずつ足が動くようになったんだ。だからバーチャルこままねマラソン大会は、脳波計使わなかったんだよ! モーションキャプチャを付けて、本当に自分の脚で走ったんだよ!」
 私は何を言われているのか分からずに、しばらく呆然としてしまった。
「……おめでとう!」
「私は夢を諦めそうになっていたけれど、及川さんのお陰で本当に走れるようになったんだ。だからね。及川さんも夢を諦めちゃ駄目だよ」
 宇野さんは、スマホを取り出して私に差し出した。画面には、宇野さんのSNSが映し出されている。バーチャルマラソン大会の記念写真に、こんなコメントがついていた。

『おめでとう! ところでこのアバター手が込んでるね。作った人を教えてくれない?』

「この人、誰だか知ってる?」
「いや、知らない」
 私は首を横に振る。
「CGアニメ会社のデザイナーさんなんだって。学生バイト、募集してるらしいよ」
「本当に!?」
 つい大きな声を出してしまった私を見て、宇野さんがにっこりと笑う。
「及川さんのこと、教えてもいい?」
「もちろん!」


 知ってもらってからが、本当のスタートラインだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?