見出し画像

彼女はこんぺいとう、針の入った


 深い池のようだった色の空が、ゆっくりとを彩度を上げてゆく。そうしてそこにいくつかの千切れ雲が浮かんでいるのが判ってくる。地上に近いほうから、さあっと薄く、筆で色水を掃いたように、淡くやわい虹の色が滲んで。

 今年いちばんの空はそんな感じだった。

 ショッピングモールのベージュブラウンの壁にもたれて、レンガ地の床面に新聞紙をひいて座っている私の左隣に、少し体の小さくなった叔父が。右隣には、年越しイベント勤務からのそのままここへきた流れ、ほとんど徹夜の我が脳みそには少し大きすぎる声で話す姉が、いる。
 新年のショッピングモールにて早朝数量限定で販売されるお年玉つき商品券。その購入のための列の、割と前の方で、私たちは販売時間がくるのを待っていた。


これは私の2024年始まりの風景。


 母親の事を少し言語化したい欲が出てきて、けれど過去に書いて脳味噌から出していたもののなかでも同じようなことを綴っているので、改めてここで『お焚き上げ』しておこうと思います。
 同じことを新年にも書いている。これは延々と同じテーマを繰り返すホームドラマなので。父のDVが遠い記憶の彼方へ流れていっても、機能不全とはそういうことで…。つまりこれは、その繰り返しの断片。
 ですから本来ここで取り扱いたい『明日の話』とは質が異なってしまうかと存じます。けれどこれもまた明日へと進んでゆく過程の一部なので、戯言のままとは綴じますがご容赦ください。
 繰り返しのループ上に言葉の楔を打って、足を掛けて、違うところへ…行きたい。


叔父、二人の姉、そして私。並んで座って、曇り空の初日の出をありがたみも特になく、見上げる。

 このメンバーは毎年ここに来る。商品券を買いに。昨年はここに母もいた。彼女の持ってきた、彼女独特の、四角いおにぎりを皆で食べた、確か。

 四角いおにぎりと言われても想像がつかないであろう読み手の皆様のために解説しておこう。
 ソレは全形海苔で風呂敷よろしくお米を包む我が家のおにぎり。食べる側の快適さよりも作る側の合理性に特化したこのスタイルを(なにしろ海苔の重なったところは噛みちぎるのに多少の難儀がある)私は実は愛してさえいる。
 秒を争う朝一番の自分の体に、なんとかエネルギー補給をと考える時、私はソレを作るので。
 タオルペーパーの上に海苔、そして中央にドカンとお米。適当にごはんの友をのせてから、四方を内側へ折り込めば仕上がってくれるこのスタイル。最短10秒で出来上がるこの方法には健康寿命を延ばしてもらっているとさえ思う、けれど。

 急いてそうするのではなく、それをまるで「うっかりそうしてしまった」かのように…愛情がちゃんとそこに入っているという顔で、一年に一度会うか否かになった相手にも、当たり前に差し出してくる彼女を。様式としてそれを「ありがとう」と受けとる以外にすべがないこの集団を。目の前にするこの時間、私はある種の緊張の盾を心臓に握りこむことで、自分の形を守ろうと…する。

 母と過ごす時間は細かい針のしこまれたこんぺいとうだ。愛らしい形、甘い香りと味、けれど口の中で転がせば舌を切り裂く針がある。
 四角いおにぎりはその象徴でしかない。愛の顔をして差し出される得体のしれないモノ、それらすべてを総括してくれる象徴。


 今年は彼女が欠けていた。
 だから私は、あの四角いおにぎりを受け取ったり拒んだりするのに胸を千々に引き裂く必要がなかった。
 つまり、『こんぺいとう』を口にしないように唇を固く引き結ぶ必要も、間違えても舌で転がしたりしないように心を動かさないでいる必要もなかった。どんなに上手くやってもやがて口の中に広がる血の味を、ないものにしようとする努力も。…その必要がない、そう、思っていた。

 けれど、そんな捩れた関係性しか提供してくれない人が居なければ、居ないで。


 やがて、我々はここには居ないその母親について話し始めた。
 待ち時間の長さと待たされるシステムの不合理さ、盛り上がらない会話に焦れて。
 それはまるでこの膿んだ空気に捧げる生贄だった。さっきまで停滞していた時間がフワッと熱を帯びる。そうやって、彼女についての悪口が最高の笑い話になるこの集団の、一員として、どうすればいいのか…途方に暮れて。

 そうやって、途方に暮れながら…暮れていながら、それなのに。
 私は、この話題のとき特有のハイテンションで、件の母への悪口に加担した。どうにかもがきたくて開いた口、けれど。
 結果的に場をあたたため(あたため?)、楽しもうとし(楽しむ?)、…私は、私たちはおそらく何か別のことから目を背けた。それはおそらく、こうして過ごす以外に術がない自分自身の貧相さや、一緒に過ごす他人へ気遣いのない、自分の身内への苛立ち…そういったもの。

 これはもはや、甘くも可愛らしくもない。ありがちな話題のひとつとしてアットホームに収めるには毒々し過ぎた、その場に居ない人間をこんなふうに貶めて、笑うなんて。
 母親の立ち振る舞いのように捩れてはいない分、質はいいと言えるのか。はたまた空気のように透明な分、尚更深刻と言うべきだろうか?

 肌に馴染んでいるそういった加害性に自己嫌悪感で閉口するその構図と、お正月のお年玉つき商品券を買う列を作る一員を担いながらも並ぶ人間達全般にうんざりしてみせるのとは、とても良く似ていた。こうやって年をとっていく、と結ぶにはあまりに苦くあまりに出来すぎていた。

 


 私の母はまるでこんぺいとう、針の入った。そうして私はいつまで、そのこんぺいとうを菓子として認め続けるのだろう。どうすれば、この針入りのしろものを、自分の食卓からおろせるのだろう。
 彼女がその場に居なくてそれでも、私はその残像に口から血を流す、こんなふうに。この家族、この集団、人と居るということがこんなにも油断ならないことだと共有し共感させられ体験し続ける、このまとまりから…逃れられるにはどうしたらいいのだろう。

 わからないまま、わからないからこそ、愚にもつかないことをこうして書いている。自分の身体の一部のように感じるものを、ここまで拒絶しなくてはならない。というかもっと拒絶しなければ、来年も口から出血しつつ微笑むハメになる。彼女はこんぺいとう、針の入ったーーー。

 自分に嘘をついて、例えば甘いものキライだ、とかなんとか並べても、大して遠くには行けないのだ。
 だから正直に言おう私はあの針を憎んでいる、そして愛してもいる。 
 口中から血を流しても、会うたびに約束されているかのようにそうなのだとしても、死なないなら構わないのじゃないかと未だに思う程度には愛している。
 けれどそれではもう他の誰も愛せない、大切にできないのだととっくに分かっているから。「針を仕込んだ甘いもの」の差し出し方を、私はよく見聞きし知っていて、思うより先に提供することさえできるのだから。

 だから私は自分の食卓そのものを、新しく整えてゆかなくてはいけない。なんとなくではなくてそこに何を並べるか、言葉にして選んでゆく、そうやって生きていく。愛するとはどういうことか、自分で決めるために。
 血を流さなければいけないものを愛なんて呼ばなくても良いように。

 これは希望。自覚的に言葉を奮って、自分にメスを突き立てて、行きたい先があるから私はそうするのであって、けれど、なんてことだろう…?
 まだ肌に馴染みのないものを語る言葉は、こんなにもカンタンで、平坦だ。軽くて、プラスチックできたキレイな色のオモチャみたいに、遠い。

 肉親を想えば想うほど虚になってゆく、愛したいものの手触り。

 それでも、こうして、手を伸ばす。まだ軽くて無機質なからっぽのソレに、重さを実感を肌の匂いを…確かに、刻んでゆくために。

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?