見出し画像

努力するのは難しい

昔から努力が苦手だった。
最近だと努力するというのもDNAの一部で適性が一つの要因となっているということで、理由を与えられるというのはありがたいことだ。

だがずっと私は自分ができないことが引っ掛かっていた。
できないというのは違和感だ。
手がついているのに指が動かせないという感じ
世界は動いているのに自分は動けないその一瞬。
あの世界のふわっと白く止まる、あの感覚。

姉は努力の人で、周りの尊敬する大好きな友人たちも
努力をすることは普通にできることだった。
努力できない私は、もっと違う無機物として在るという仕事ならできただろうにと思う。

できる範囲で生きている。
今もなお、できる範囲で生きている。
逆に言うと努力ができないので私はめちゃめちゃ安定している。

変化は普通にあることだし、それを受け止めるのは努力していなければ容易だ。

努力は今ある状況の中、変化のためにエネルギーを燃やすことであり、自分に対する努力も他人に対する努力も、走りながら周りの景色を細かく見ながらできないのと同様だ。
努力すること自体に集中力とエネルギーを必要とすることなので回りは見えづらい。それほどの集中と熱量はとてもまぶしく美しいと尊敬している。

しかし私は努力ができない。走れと言われても走れない。急げと言われても咲いている花や、水音や、とても気持ちのいい開けた空間があったらふらふらしてしまう。
できないことがある分、努力している人を休憩させるのがすごくうまくなった。
私は低燃費なので努力といえない温度の熱を燃やす続けるのは結構得意なのだ。だから焚火だったり飯盒だったりには向いている。
工業の発展には向いてないけど。

今日も努力をまじめにする友人たちを遊ぼうという。
涼しくなったら公園に行って、ひなたぼっこして
いい感じの枝を拾って、日陰で日差しのきれいさにうっとりする。

ああ、今日も私は生きているだけだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?