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自分も他人も窮屈にしない小さなアクション

コーヒーと甘いものが食べたくて、カフェに行った。

個人営業の小さな店だったけれど、とても良い雰囲気。満席で一人一人がおもいおもいの時間を過ごしているようだった。音楽とゆったりした時間が流れていた。

でもそれを壊す者がいた。

私だ。

未遂で終わったけれど、店内の写真を撮ろうとしてしまったのだ。すぐさま店主が「店内の撮影はお断りしています。手元だけでお願いします。」と言った。店内の人たちは誰がその行為をしたのかを探すというわけではなく、また元の緩やかな空気に戻っていった。

私は大人なのにどうしてこんな行動を取ってしまったのだろうと後悔した。自分が良いと思った空間や空気を自ら壊しにいってしまった悔しさや、じっとしていられなかった恥ずかしさを感じていた。

反省してもうやらなければ良いことだけれど、自分の中にモヤが広がってしまった。じゃあ、どうしようか?

コーヒーと甘いものが楽しめる店なら、世の中にたくさんある。だからこの店にもう行かなくてもいい。お代を払えば犯罪をしたわけではないから、それでいいかな。でもこの店はもう行きずらくなるな。などと少しグルグルした。

でもやはり「恥ずかしいことを恥ずかしいままにしておくのは嫌だな」と思い、それを解消しようと思った。帰る時に謝りの言葉をかけようと決めた。そのあとの時間は静かにこのお店の時間を楽しんだ。

お会計の時、私は「店内の写真を撮ろうとしちゃって、ごめんなさい」と言った。店主は少しびっくりしたような雰囲気で「いやいや」と言ってくれた。そして「写真を撮るくらいならぼーっとして欲しいな。」と付け加えた。「確かに」と私が呟いた後に、店主は笑顔で「また来てくださいね」と言った。私は嬉しくなって「また来ます」と言った。

そもそもお前がマナーを守らなかったから謝らなくちゃいけなかったんだろ。無駄な行動するから無駄なやりとりも増えたと思う人もいるかもしれない。

確かに、生産性の観点で考えるとそうだよなと思う。

私も、大人というのは「正しさ」を守る人のことだと思っていた。もちろん法律は守らなければいけないし、マナーも守るべきだ。

ただ、やっぱりいくつになっても間違えちゃう時ってあるよなと思うのだ。間違えた者は許してはいけないと考えていると、自分にも他の人にも非寛容な社会が出来上がっていく。最近はその風潮が強い気もしている。

「まちがえちゃった、ごめんなさい。」と言える勇気を持つことは、自分の行動が「相手の寛容さ」を広げることだと思う。

自分も他人も窮屈にしない生き方は、小さなアクションから始まっていく。その起点になることが、大人になるってことなんじゃないかって思った。

今日はこんなところに着地しました。


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