読書感想文『ハンチバック』
入院中に読もうと購入した数冊の、一冊。
我慢できずに読んでしまった。
「この本を読みたい」と思ったのは、作者の芥川賞受賞会見をテレビで観たのと、 noteの方々の note(記事)やコメント欄を拝読したから。
作品感想の前に、大学時代の話をしたい。
◆◆◆
今から30年ほど前、東京都町田市にある私立大学に通っていた。
世間一般ではFラン大学と言われ、滑りどめの滑りどめと言われ、校名を言うのが恥ずかしいとか、まともな学生がいないとか、就職は出来ないとか、良いところより悪評の方が目立つ。
最寄駅は、小田急線の各駅電車しか停まらない。
駅から大学まで山を切り崩したような道を歩くし、途中にある川は雨が降れば氾濫しそうだし、道中には納豆工場がある。(茹った大豆の香りが、やたらと漂っている)
構内の外通路には、無数の吸い殻。
好き勝手に始めた酒盛りの跡か、空のビール瓶が転がる。
裸に近い男女がふらふらしていたり(おそらく演劇部)、純白の学ランに白手袋の主張強めの人や、永遠に麻雀をしている人達や、大学に住みついている人達(勝手にロープ張って洗濯物を干したり、卓上コンロで小鍋でラーメンを煮て食べている)もいた。
汚くてカオスみたいな場所だった。
中学高校と女子校で育った私には完全なる異世界。
1年生の始めは、教室から教室へ緊張しながら移動した。
この大学に進学したのは、幾つも志望校を落ちまくったからなのだが、中高の六年間、社会を教わった先生(本業は僧侶)が、
「おまえには絶対合っている。きっと得るものがあるからその大学行けー!」と、ドラゴン桜ばりに主張したからだ。
もう一つ受かった大学をやめて、ここにした。
この大学には、障がいを持った学生が多く通っていた。
白杖を持っている方。
盲導犬を連れている方。
補聴器をつけている方。
電動車椅子の方。
両足に装具を装着している方。
発語が困難でPCの画面を使って会話する方。
私の在学中はエレベーターが新館にしかなく(現在は全館あるようだ)、車椅子ユーザーの学生が階段を使用する際は、
「お願いしまーす!」
と、どこからか声がして(本人の時もあれば、近くにいた他の学生からの時もあった)
まわりにいた者達がわらわらと集まり、「せぇーのっ!」の掛け声で車椅子ごと持ち上げ、階段移動をサポートした。
金髪で鼻ピアスの人も、巻き髪の女子大生も、体育会系も、あたりまえのように手を貸した。
「ありがとうございましたー!」
「どうもー」
「おつかれー」
毎日の見慣れた光景。
装具を着けている学生が手すりにつかまりながら階段の昇り降りをしていると、
「何か手伝いますかー?荷物、持ちますよー」
「ありがとうございますー、大丈夫でーす」
と返ってきたり。
授業中は、聴覚障がいの学生の近くで手話通訳している学生がいたし、目の不自由な学生が点字を打つ音がしていた。
発語が困難な学生のレポートは、教授が代わりに読みあげ発表した。
「彼女のレポートは、このクラスで一番優秀です」と教授が最後に言った。その通りだった。
すごいですね、と話しかけるとPCの画面に「ありがとう」の文字。
私は「対面朗読」というボランティアに登録していた。
月に数回、図書館内にある一室で、視覚障がいのある同級生の「読んで欲しいもの」を読みあげる時間を持っていた。
「授業で使うテキストを読んで欲しい」と言われ、私が音読し、彼女が点字で打ち込んだ。
多くのテキストはPCを通して音声になり、それを彼女は点字に直して自分専用の資料にしていた。
PCでうまく音声化できないものを、対面朗読の時間に私がその場で読みあげた。
好きなアーティストのコンサートに申し込みをしたいから、ファンクラブ専用の申し込み用紙に記入して欲しいと頼まれ書き込んだり、「これって何て書いてある?」と手紙を渡されて音読したり。
点字本を見ながら、彼女宛てに点字で葉書を書いてみたりした。「うんうん、読めるよ」とニコニコされた。
サークルの中には、手話通訳研究会や点字サークルがあった。
大学に行き始めた頃、障がいを持った人達とどう接していったらいいのかと思うこともあった。
が、日に日に慣れた。
車椅子も階段でのサポートも点字も手話通訳も、手伝ってくださいやありがとうも、全てが日常的にあるものであって、自然なことだと思えたからだ。
彼、彼女らは私の同級生であり、先輩であり、後輩だった。
友人の中には「将来的に手話通訳士になりたいからこの大学に来た」という人がいて、彼女は卒業してからその夢を叶えた。
私は授業中やキャンパス内で目にする手話に興味を持って、地域の手話講座に通ったりしていた。
ほとんど忘れてしまったが、手話を見かけると気になってみている。
身体のどこかに不自由なところがあり、同じ学校で学ぶ人たち。
彼、彼女らの日常を、少しだけであるが共有できたこと、私にとっては大きかったと思っている。
◆◆◆
さて、『ハンチバック』のお話。
本の中から叫びが聞こえた。
見ろ!
見るな!
知れ!
知るな!
どうせ分かりもしないくせに!
分かろうともしないくせに!
抗えないような強いうねりに、これでもかと地面に叩きつけられた。
物語に、痛めつけられた。
やめてほしいのか、やめてほしくないのか。
この痛みは私の痛みで、私だけのもの。
読んで得た痛みだ。
作者は物語を「はい、どうぞ」と目の前に置き、私はそれを受け取った。
主人公・井沢釈華のなすがままに、私は物語のエンディングを迎えた。
どう感想を述べたらいいのだろうか。
読了後いちばん最初に思い出したのが、大学時代のハンディキャップのある学生たちのことだ。
セクシャリティ。
性。
『ハンチバック』を読み終わり、自分の浅はかさを思った。
私が持っているもの。
誰かは持っていないもの。
持ちたくても持てなかったもの。
作者の強い眼差しが突き刺さる。
怒りの熱が伝わってくる。
違う。違う。
憐れんでなどいない。
私は………
何?
私は何?
その先を聞かせてよ。
主人公・釈華と作者がにじり寄る。
迫力に押されながらも、後ろにはさがらない。
さがりたくない。
踏ん張り持ち堪える。深呼吸する。
憐れんではいません。
市川さんを、もっと知りたくなりました。
私の言葉は、何ひとつ、作者の心を満たさないであろう。
市川さん、おしゃれですね。
授賞式のドルチェ&ガッバーナ、素敵でした。
似合ってました!
怒られるか。
でも、彼女に伝えたいことなのだ。
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