狩猟免許合宿1日目──遊走
今日から狩猟の免許合宿に行く。2週間のプログラムだ。
北海道の厚沢部町というところで農作業をしながら狩猟免許の基本を学ぶことになっている。合宿所に複数人が寝泊まりするということだが、詳細は知らされていない。今日顔合わせをすることになるのだろう。
準備
準備は万端のはずだ。
作業用の長袖長ズボン複数枚と、洗面用具、風呂道具、延長コードにハンガー、そして何より本。
本は2週間という長さを考えて、たくさん持ってきた。
大岡昇平『野火』
夏目漱石『草枕』
檜垣立哉『ドゥルーズ─解けない問いを生きる』
生田武志『いのちへの礼儀』
桜井章一『金メダリストの条件』
東千茅『つち式二〇二〇』
『不/見』
たぶん、以上だ。
読みかけの本も半分くらいあるが、この期間で読み切ってしまうだろうか。それとも、そんな暇はないだろうか。
今は、新大阪から東京に向かう新幹線の中だ。
東京で昼食をとったあと、はやぶさに乗って北海道を目指す予定である。
なぜ狩猟免許なのか
理由①:生き物を殺していただく過程に参与したい
どうして狩猟の免許を取ろうと思ったのか。ひとつは、生き物を殺していただく、という過程に参与したいと考えたからだ。
わたしたちは肉を食べるが、今の社会では、肉が生き物だったということが意識されないように設計されている。スーパーに行けば、食品トレーに載せられて、ラップに包まれている肉を見つけることができる。それはさながらこの肉がかつては生き物だったということを隠蔽しながら、ただ肉を「材料」としてのみ呈示しているかのようである。
これは消費者が「余計な」ことを考えないで、消費活動に専念することができるように、という配慮なのだろう。社会としては分業し、一部のひとのみが生き物の生殺与奪に関わり、他のひとたちは別の為すべき活動に勤しむのが好ましいのだろう。
だが、わたし自身も生き物である以上、他の命を奪い、あるいは奪われる可能性に曝されながら生きることは、生の前提である。命を奪いながらこの命を存えさせているという事実に目を塞ぐべきではない。だからこそ、命をいただく過程が隠されている状態に安住するのではなく、その過程に参与したいと考えたのである。
理由②:獣害について知りたい
もうひとつの理由は、獣害について身をもって知りたいということがある。
スーパーには肉ばかりではなく、数多くの野菜も並んでいる。これもまた生産・流通システムの恩恵に与っているわけだが、野菜を育てる過程でも、獣害を避けるべく野生動物が狩猟されているという現状がある。
それは都市圏で生活するわたしには想像が困難なことだ。無垢にも、どうして野菜を作るのに多くの動物を殺さないといけないのだろうか、共存の方法はないものだろうか、と考えてしまう。
だが、野生生物を狩ることは実際に農業に従事しているひとにとっては、農作物や土地を守るための緊要な営みなのだろう。
この免許合宿プログラムでは農作業をしながら狩猟について学べるということなので、獣害の被害に遭うとはどういうことなのか、あるいは、育てた作物が食い荒らされる気持ち、それから、野生生物の狩猟によってどれだけ助かっているのか、といったことをその一部でも体験し、学ぶことができたら、と考えている。
理由の①にしても②にしても、生きながらえているうえで、忘却されがちな前提を確かめたいという思いが底にある。
結び
合宿の過程や様子は、随時noteにまとめる予定である。2日に1回程度のペースで更新できればと思う。
この旅でわたしは変容するだろう。知らない土地に行き、知らないひとに会う。思わぬ「外」の風が吹いてくるだろう。あるいは、暗すぎる夜に光が見えるかもしれない。