瞑想者の眼

ヴィパッサナー瞑想の感想、第一弾です。)

 まずセンターに到着して思ったのが、この瞑想を長く続けている人ほど、目に力が宿っているということだ(コース開始前には、その前のコースの参加者が居残っていたり、コース参加予定の人が早めに訪れたりしている)。彼らはとても目が澄んでいて、視線を合わせると、わたしの奥の奥まで見通されているかのように感じる。

 観相術が観相学になったときにそのエッセンスは失われた。人の顔を見たときの、この人はこういう傾向の人だろう、という今まで人と会ってきた経験の蓄積としての観相術はそれぞれの人に備わっているだろう。だが、個々人が持つそれぞれの観相術を串刺しにする勢いで、そこに客観性を持ち込もうとすると、それは実のない空疎な先入観を作り出すことになってしまう。串を刺すときに、必ず言葉や記号を介在させるからだ。人間には暗黙知の領域というのがある。暗黙知とは、口では説明できなくても動員できる知識、知恵のことだ。筋肉の使い方や身体の構造を説明できなくても、海は泳げるし、わたしたちは住み慣れた家であれば、暗闇でもある程度の物の場所や距離感を把握し、動くことができる。わたしたちは言葉を使わず、暗黙知的に人の顔を判断している。「かんじのよさそうな人だ」「近付かない方がいいかもしれない」「元気がなさそうだ」「幸せそうな人だ」などなど(こんな言葉にさえならないレベルで、しばしば無意識に)。でも、実際にその人の顔のどの部分が、こういった印象を与えるのか、それを説明するのはひどく難しい。なんとなく暗いオーラが出ていた、とか、肌の色味が澄んでいた、とか、詩的な比喩を使わずにその印象を表現するのは困難に違いない。
 そして、そういった比喩として、わたしはヴィパッサナー瞑想を長く続けている人の目に力が宿っている、瞳が澄んでいる、と言う。
 思ってみれば不思議なものだ。瞑想とは目を「瞑」って行うもの、暗みにおいてなされるものなのに、どうして瞑想者の目が玉のようになっていくのだろう。
 ここからわたしはある仮説を立てる。目とは見えているものを見ないための器官ではないか、と。そしてそこから押し拡げて同様に、耳とは聞こえているものを聞かないための器官、嗅覚とは匂っているものを匂わないための器官、味覚とは味があるものを味わわないための器官であり、触覚とは触れているものを触れないための器官ではないかと(わたしが「葦田不見」の名で文章を書くのには、見えているものしか見ようとしないことへのアンチテーゼという側面がある)。そして、その見えているもの、聞こえているもの、匂っているものが想像であり、そうではないところにある「現実」に、より確かにさわることができた器官はよりその器官としての役割を全うしているということになり、その「輝き」が増す、というふうに考えられはしないかと。人間は外界の情報の取得を多く目に負っている。だから、「想像」に対して目を閉ざせば、それはより多く「現実」をまなざすことになる。ブッダやキリストが光輪を携えているのも、もしかしたらこのように解釈することができるかもしれない。
 さて少し脱線した。人の見ることのできた「現実」が少しずつ拡がっていくと、その人の目はより「目」になっていくのだと思う。今回はサーバーだったからよくわかるのだが、参加者にはコース前後で見違えるような顔付きの変化がある。参加者(新しい生徒)の多くはものすごく辛そうな顔をしてやってくる(「問題なく」日常生活を送れるような人間は、10日間もの苦行をあえて己に課そうだなんてなかなか思わないものである)。だが、ほとんどの人がコースの終わりに向かって徐々に晴れやかな表情になっていく。くすんだ目が日に日に濁りを落としていくのを見ることができる。これはサーバー冥利に尽きるというもので、最終日に参加者たちがにこやかに会話をしているのを見たときにはなんとうれしいことか、と思った。
 目は口ほどにものを言う、というが、確かに目は、その目を覗き込む人に対して、自分が何を見ているかを嫌でも示してしまう器官だ。鼻はなにを嗅いでいるか外から推し量りようがないし、聴覚や味覚、触覚も同様だ。だが目だけは違う。もしかすると目は、己が見てきたものを自ら示すのかもしれない。
 だからヴィパッサナー瞑想を長期に渡って続けている人に対して、目が澄んでいる、とわたしは感じたのかもしれない。彼らは濁りに妨げられず、ものを見る人たちなのだと。

100円でも投げ銭をしていただけますと、大変励みになります。よろしければ応援よろしくお願いします。