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"太宰治の女房" 芦田晋作

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石原美知子は太宰治という派手な建造物の礎になった人である。建造物の形は城というよりは塔という感じがする。それが建っている場所は確かに他にも建造物の多い都会であるが、これほど高い建物は見回してみてもあまり無い。
 また少しだけ言い方を変えると、太宰治が作った塔の土台は石原美知子が作った物である。その豪奢な建造物の四隅にある柱のことごとくは石原美知子という土台石の上に立っている。
 その建造物を見て訪れた観光客の多くは、この国で最も親しまれている古典作家、と感嘆の声をあげる。ところが建物が豪奢なぶんだけ礎には誰も目をやらない。太宰の『人間失格』に心動かされる時、石原美知子の事を思い出す人はまずいない。しかし、まず安全な場所に身を置いておけないからこそ太宰の文学は生まれたのではないのか。
 石原美知子がいなかったら太宰治の成熟期もまた日本文学史上から消えてしまう。
 それは何も『黄金風景』『駈込み訴へ』等の佳作の幾つかが美知子の口述筆記によって生まれたから、などという短絡な理由ではもちろんない。
 太宰のような「壊してはいけないもの」を壊した時に出たエネルギーでものをつくるタイプの芸術家には「壊れるはずのないもの」が常に傍らに無いと駄目だからである。彼は、身近なものが壊れる音を聞いてものを作り続けた。また、壊れてしまう事を恐れる事で。
 美知子に出会う前の太宰の人生にはもう壊れるものが一つも無かった。度重なる不行跡から生家に義絶され、帝大を除籍させられ、新聞社の入社試験に落ち、パビナール中毒に冒され、精神病院に入院し(それを恩師井伏鱒二らの裏切りととり)、内縁の妻が親戚と姦通し、数度の自殺に失敗し、芥川賞に二度落ち、長兄文治が選挙違反に問われ、父が死に、姉が死に、弟が死に、甥の逸郎が服毒自殺した。そうした荒んだ生活の中で書いた『創生記』は荒んでいる。『HUMAN LOST』も荒んでいる。行き詰まりである。このままの生活ならこの新進作家はこの時点で消えるはずであった。ところがこの作家は運がいい。周囲の尽力によって「家庭」という名の普遍的な壊れ物を手にする事ができたのである(ところで太宰はそれを内心でほくそ笑んだだろうか。いや、まさかそこまで悪人ではない。どころか、この男は年来の気弱と人の好さのために次々と泥沼に入り込んでいったようなふしがある)。
 一般にも、作家が円熟するためには家庭が必要である。太宰の場合には、芸妓でも女給でもなく、過去に出会った事のないタイプの家庭人が必要であった。
 例えば、石原美知子のような。
 この女性は、よき家庭人である。家事一切をそつなくこなすのは言うまでもなく、加えて太宰が安心して文学を語れるような教養があった。太宰歿後も文壇・読者に多少なりとも貢献せんとするような文学への理解があった。作家という独特の生き物を理解した。作家が踏み台にするには上等すぎる踏み台である(後の事になるが、この踏み台を誤って踏み外し床に落ちる事でこの作家は世間の耳目を一挙に自分に集める事に成功したのだからやはり結婚生活が必要だったのである)。
 しかし逆に、このような女性の人生にとって太宰治のような男が必要であったのか、それは、分からない。

 一枚の幸福な写真がある。
 七人の兄弟が実家の前に一列に並んで撮った古い写真である。父親が撮ったものであろうか。右から、富美子、喜代、宇多子、左源太、美知子、愛子、明、の順である。左側の妹と弟は意識しすぎて顔が強ばり怯えているようにも見える。三人の姉のうち富美子と宇多子が中央に気をとられているのは、左源太と美知子が何かおかしい事を言っては快活に声を出して笑っているからである。
 姉たちが二人を微笑ましく見つめている通り、美知子はこの三つ上の兄・左源太と特に仲が良かった。
 休みの日などよく城址の図書館へ連れだって通った。
「美知子、知ってるか。札幌はな、お札が寒さでほろぼろになるから札幌と言うんだ」
 美知子は眩しいような目で左源太を見上げた。
「兄ちゃんて何でも知ってるね」
 源太が自転車に乗れるようになった瞬間も、美知子はその傍らにいた。
 家の前で自転車の練習をしていた。
 美知子は何度目かに、後ろの荷台を掴んでいた手を思い切って離した。自転車は倒れずに、進んだ。左源太は狂喜し、
「美知子、母ちゃんを呼んできてくれ。早く早く」
「うん」
 美知子はスカートの裾を持ち上げて家の中へ駆け込んだ。
 七人の兄弟の父は初太郎という。
 東京帝国大学地学科卒後、鉱山局などを経、山口県豊浦中学校長、島根県立第二中学校長、山形県立米沢中学校長などを勤め、その後山梨県の嘱託となって県内一帯の地質及び動植物の研究に尽力し、後には景勝地開発事業にも携わった。母のくらは兵庫県出石郡の士族岡本嘉門の娘であり京都第一高等女学校(現府立鴨川高校)を卒業している。
 当時の最高級の教育家庭と言える。
 七人の中でも出色と見られた美知子は殊に目をかけられ、学校の廊下に朱墨の三重丸で習字を張り出された時も初太郎に、
「何でも買ってやる」
 と誉められた。
 また書道だけでなく算盤も得意であった。性格がおとなしく、教室の中で目立つ存在ではなかったが勉強の方は常にトップクラスであった。それに勉強だけでなく、この頃の級友が五年生の時の甲府市内六校による大学芸会の時の美知子の演技は秀逸であったと後に回想している。
 美知子は親の血を引いてか、学ぶ事が好きであった。甲府高女卒後、東京女高師(現お茶の水女子大)の国文科を経て地理・歴史の教師として山梨の都留高校の教壇に立ち、寮の舎監まで任された。授業の進め方にもそつがなく、生徒たちにもよく慕われた。この当時の同僚の回想に、
「完璧な人だった」
 というものがある。近所でも評判の才女であった。
 普通ならいずれの財閥の御曹司に嫁いでもおかしくない才媛である。
 ところが、太宰治と結婚する事になった。不思議と、その名も作品も美知子は知らなかった。美知子は文学に対して不通ではない。幼少の頃より都留高女の教壇に立つようになった現在まで、『伊勢物語』に親しみ、『奥の細道』に憧れ、牧水の歌を好んだ。不思議と、というのは四年前の第一回芥川賞の受賞作を読んでいたからである。石川達三の『蒼氓』である。そこには確かに次点の作者名も記されていたはずであった。高見、衣巻の名は覚えていたのにもう一人、「太宰治」という響きにだけは聞き覚えがなかった。
(おかしいなあ)
 と美知子は思った。
 その何やら得体の知れない文士が嫁を探しているという。生活を安定させてやりたいという周囲の者たちの強い意向らしい。しかもあの『山椒魚』で高名な井伏鱒二も世話役の一人であるという。
 妙な縁談が持ち込まれたものである。
 太宰の生家からの目付役ともいうべき中畑・北両人が井伏に懇願し、井伏が弟子の高田英之助に相談し、高田の嫁になる人の実家の斎藤家から同じ甲府の石原家は紹介された。まるで回覧板である。
 母のくらは相手の男の素性にではなく井伏の能筆にしきりと感服し、
「偉いもんだ。文士はやっぱり違うねえ」
 その封書を神物にでも触れるように大切に扱った。
 自分の縁談である。美知子は相手の事が気になって、中を覗き込んだ。そこには相手の希望として、十九歳から二十九歳まで、とだけあり、既刊として『晩年』『虚構の彷徨』がある旨、記されてあるだけであった。本名・津島修治ともあったが、これだけではまるでつかみどころがなかった。
「どんな人だろう。酒飲みかねえ」
 くらは心配顔であった。
「分からないわ」
「会ってみるかい?」
 美知子は意外にも、
「ええ」
 と答えた。くらの背中を少しでも押していたものがあるとすればそれは井伏の流麗な文字であり、美知子にとっては、
(もう二十七だもの)
 という気持ちがあった。相手は三十歳である。
 美知子は本人に会うまでに彼の二冊の著作を読んだ。東北から北海道にかけての旅行中、たまたま立ち寄った青森の書店で『虚構の彷徨』が三冊並んであるのを見つけたのである。
(あ、あの人のだ)
 美知子は三冊とも抜き出したい気持ちで手にとって、めくってみた。口絵に著者の写真があった。これが太宰との初対面であった。煙章を手にし、こちらを見て穏やかに笑っている。
(優しそうな人)
 美知子は安心した。青函連絡線の中で『狂言の神』『虚構の春』と読みふけった。他のどの作家よりも身近に感じられた。苦しんで、美しいものを作り出そうとしているのがありありと分かった。才能がある事が分かった。その後太宰本人から送られた『晩年』を読んだ時にはそれは確信になっていた。特に『思い出』という一編には心を動かされた。こんなに物悲しく美しい小説を書く男が悪い人のはずがないと思った。台所で野菜を切っていたくらに、
「良い人だと思うわ」
 と言った。
 ところが、
「そうかねえ」
 意外にも母は怪訝な顔をするのである。聞くと、出版社に勤める親戚の一人から、「あれは実にひどい男だ。美知子にはもっとふさわしい相手がいるだろう。その縁談はよした方がいい」という横槍を入れられたのだという。
 美知子は気にしなかった。
「とにかく、会ってみます」

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