それでも桜を

常に1週間前のほうが楽観的だった、というふうなことをこの前書いた。これは現在進行形でそうで、なんだか少し反省してしまう。2週間前は県内の温泉にでも旅行しようかなとか思って宿探しなんかしてみたし(もちろん安くなっているのでは?という目論見があったのだが、温泉宿のシングルユースはなかなか高い)、1週間前くらいは、来週は岩手公園に桜を見に行きたいな、とか考えていたのである。

岩手は感染者が確認されていないし、それぐらいの行動は許されそうなものだけど、首都圏で観光地に車の渋滞ができているニュースとインタビューを見て、やめた。結局、これぐらいはいいかな、の積み重ねがあの光景につながっているのであった。今の行動は2週間先に結果が出るし、現在起きていることには常に2週間前の行動が問われている。これは正直、とてもストレスだ。

感染者が確認されていないといっても、最近は岩手医大の先生が、感染者は確実に存在すると公然と言っていた。先週くらいから、盛岡でもコンビニ、スーパーなどは例の”ビニール”をレジの前にさげるようになった。列の間隔を示すラインも引かれた。あのビニールが一枚あるだけで、意外とコミュニケーションがとりづらくなる。透明といってもそれは壁なのだと思う。

ソーシャルディスタンスという言葉が定着して、買い物中も、なんとなくお互いを避けるように動いている。街の様子が確実に変わってしまった。もう元には戻れないんだな、というようなことをふと考えてしまう。

おそらく今週末、盛岡の桜は見ごろを迎える。前述のとおり、今年は岩手公園に行くのはあきらめた。幸いにも私の職場にはソメイヨシノの老木が並木道を作っている。だが、いよいよ来週から在宅勤務に切り替わることになった。

一足先に、出張先の福島で満開の桜を見た。ソメイヨシノのような咲き方をする花は珍しいのではないかと思った。葉が出る前に枝を隠すほどの花が咲く。その圧倒的な淡紅色。

今年はおそらく控えめに眺めることしかできないだろう。やっときた盛岡の春。「それでも桜"は"咲く」なんぞ言いたくない。それでも私は桜”を”見たいのだ、と思う。

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