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透明マント着るAジェンダー(1)ハリーポッターと貧困の魔法

 こんばんは。夜のそらです。この記事は、「透明マント着るAジェンダー」という記事の前半(1)です。この前半(1)では「透明マント」という魔法のアイテムが出てくる『ハリーポッター』についての記憶を書きます。後半(2)では、「透明マント」を着て生きている現在のわたしの話をします。

1.スパゲッティを食べよう?

 皆さんは「透明マント」について知っていますか?これは、J.K.ローリングの小説『ハリーポッター』シリーズに出てくる魔法の道具(?)です。これで身体を覆うと、覆われた部分が透明になって、周囲の人から見えなくなるのですね。文字通り、透明マント。透明になれるマントです。
 J.K.ローリングは、強いトランスフォビックな信念をもち、差別的/差別扇動的な発言を繰り返しているため、たびたび問題視されていますね。でも今日は、ローリング個人については何も書こうとは思いません。あんな人は、過去の時代に置いていきましょう。いつの時代にも、過去の人はいます。麻生太郎や石原慎太郎のような、生きていて、権力をもっている人間でも、もう彼らは過去の人。それと同じように、J.K.ローリングはもう過去の人です。きちんと批判はされるべきだけど、もう過去の人は置いていきます。
 今日は、ローリングについて書く代わりに、『ハリーポッター』シリーズの思い出を書かせてください。
 わたしが『ハリーポッター』を読んだのは、東京から転校してきた同級生Kに勧められたからでした。Kは新築の一軒家に住んでいて、大きなゴールデンレトリバー(犬)を飼っていて、ハリーポッターシリーズを(当時公刊されていたもの)全て買い揃えていました。わたしはKと友だちになって、Kに『ハリーポッター』を勧められたのでした。
 わたしは、1巻ずつ学校でKから『ハリーポッター』を借りて、毎日むさぼるように読みました。子どもっぽい世界観だな、と思ったりもしましたが、それでも一生懸命最初から読みました。透明マントを被ってハリーがミッションをこなすときの描写は、そのときのドキドキと共に、いまだに覚えています。でも、わたしが『ハリーポッター』の名前を聞くたびに思い出すのは、その小説の内容よりも、Kとのあいだのことです。

 Kと親しくなったのは私たちが11歳の時でしたが、ある日、午前中で学校が終わったのでKの家に遊びに行きました。Kの家に着くと、Kのお母さんが家にいて、わたしにもお昼をごちそうしてくれました。そこで提供されたのは、スパゲッティでした。それは、わたしが生まれて初めて食べるスパゲッティでした。この記事を読んでいる皆さんには信じられないかもしれませんが、それまでわたしは、スパゲッティという食べ物があることは知っていましたが、食べたことがありませんでした。
 テーブルに運ばれてきたスパゲッティには、銀色のフォークが添えられていました。でも、わたしにはフォークの使い方が分かりませんでした。だって、使ったことがないのですから。すくすくとパスタを口に運ぶKの横で、わたしは何をどうしたら良いのか分からず固まっていました。少しして、Kのお母さんが心配そうに「食べれないの?」と聞いてきたので、わたしは正直に「フォークの使い方が分からないので、お箸を貸してもらえませんか?」と応えました。
 そのときの、場が凍ったような空気を未だに覚えています。Kも、Kのお母さんも、信じられない…。といったような顔でわたしを見ていました。でも、Kのお母さんはすぐに我に返ったように急いで子ども用の箸を持ってきてくれました。わたしは、その借りたお箸で、まるで焼きそばを食べるように、人生で最初のスパゲッティを食べました。Kは、こんな行儀の悪いことをしてもいいのか?といったように心配そうにお母さんの方をときどき向いていましたが、わたしは空腹だったこともあり、黙々とスパゲッティを食べました。きっと、すごく良い食材だったのだと思います。美味しかった記憶があります。

2.今日は何を作ろう?

 貧困、と聞いて、皆さんはどんなことを思い浮かべますか?お金がない、食べ物がない、着るものがない、住む家がない。確かに、それは貧困だと思います。でも、貧困って、そういう風に、食べ物や着るものがないというだけではないと思います。貧困には、そういう物質的な状態には還元できない、魔法の力があるからです。

 お金がないというのは、外食ができないということです。自分たちの手で作ったのではない料理を、食べられないということです。中華料理とか、イタリアンとか、一斤100円の食パン以外のパンを、食べたことがないということです。
 お金がないというのは、自分で作る料理のバリエーションが少ない、ということです。確かに、乾麺のパスタをゆでて、インスタントのパスタソースをかけるだけなら、1食150~250円くらいで、スパゲッティを作ることはできます。でも、お金がないと、そうやって「食べたことのないもの」を食べようという発想にはなりません。いつも作っているもの、いつも食べているもので何とか今日の食事をやりくりしよう、という発想にしかならないのです。スーパーの食品エリアで、「自分に関係のない棚」が広大に広がっていて、いちど「関係ない」と判断した棚に見向きもしなくなる(できなくなる)、ということです。それが、お金がないということです。
 よく、●●円で作るビンボー激安料理!みたいなのをテレビでやっていますよね。色々工夫して、頭を使って、安く料理を作る紹介です。わたしはああいうテレビ番組を見ると、お金持ちの人が、貧乏な家のことを知らないで、料理も番組も作ったんだな、といつも思います。「貧しい人はこんな風に工夫してたくましく生きてる」、とお金持ちの人が感動して消費するための番組だな、といつも思います。お金がないって、財布に入っているお金の額が少ないだけではないのです。献立を考える心の余裕なんてこれっぽっちもなくなって、いつも同じような料理を作らざるを得ないということです。細かな「工夫」とか「裏技」とか、そんなことを調べたり、やってみたことのない料理を実践してみよう、という発想とか、頭の柔軟さとか、やる気がなくなる、ということです。
 面倒くさがっているだけじゃないか、工夫してみようという努力をしてないだけじゃないか、と思う人もいるかもしれません。……だとしたら、あまりこういう言い方はしたくありませんが、貧乏を経験していない人には、絶対にこの感覚は分からないと思います。でも、貧しいというのはそういうことなのです。毎日しつこく訪れる「食事」という面倒なイベントのために、わずかな心の余裕を振り絞って、食べるものを用意するのです。その、飽き飽きするよう辛いイベントを前にして、「工夫」とか「裏技」とか、そういうことをする余裕は、お金がない人にはありません。お金がないというのは、そういうことです。貯蓄が0というのは、そういうことです。貧困には、私たちの心の余裕や想像力、工夫をしてみようという心のエネルギーを奪い取る魔法の力が宿っているのです。その魔法にかかったことのない人には、この気持ちはきっと分かりません。

3.一緒に遊ぼう?

 お金がないというのは、恥をかくということです。フォークの使い方が分からないわたしを前にして、KとKのお母さんが見せた表情を、わたしは忘れません。11歳ですから、わたしだってそれが恥ずかしいことくらい分かります。でも、お金がない人や、お金のない家に生まれた子どもは、そうやって他の人たちが当たり前に経験したことのあることを経験できなくて、それで恥をかくのです。
 皆さんは想像できますか?中学の同級生たちが「カラオケに行こう」と言っていて、でも自分はカラオケに行ったことがないから、やり方が分からないし、CDやDVDを買ったこともないし家にインターネットもないから歌える曲が1曲もないし、そもそもカラオケに使うお金もないし、それ以前にカラオケに行ったらどれくらい料金がかかるのかも分からないから、何か理由を見つけてその誘いを断らないといけない中学生の気持ちが、分かりますか?
 誰もが最初は「はじめて」なのだから、カラオケの方法がわからないからと言って恥ずかしがる必要なんてない。流行りの曲は知らなくても、きっと歌える曲は1曲くらいあるはず。料金が分からないなら友達に聞けばいい。お金がないなら借りればいい。―――皆さんはそう思うかもしれません。でも、それはお金の余裕がある家に生まれた人の発想だと思います。その「はじめて」を、家族とではなく、友達との遊びで経験しなければならないこと。そうやって、たった一人だけ楽しみ方も何もかも分からない環境に置かれて恥をかくこと。最終的には恥をかかないかもしれないけど、恥をかくかもしれないといつも不安に思いながら「はじめて」の状況にいなければならないこと。それがどれだけストレスフルなことか、経験したことのない人にはわからないと思います。
 高校の友達と、はじめてボーリングに行って、靴を借りたり、ボールを借りたりするという基本的な決まり事から教えてもらわないといけない人の気持ちが分かりますか?大学やバイト先の知り合いからスキーやスノーボードに誘われて、「やったことないから行きません」と断ったときに、どんな反応をされると思いますか?やったことがない事実にびっくりされて恥をかくか、「初めてでも楽しいよ」と言われて、それでも当日に恥をかくのが嫌だからもう一度お断りするか、どっちかです。そんなの、あなたが内向的なだけじゃん、と思うかもしれません。それは、確かにそうかもしれません(わたしは異常に内向的です)。でも、やっぱり思います。はじめてのことをやってみよう、と簡単に思えるのは、お金に余裕がある人の発想だな、と思います。あらゆる娯楽やスポーツを、やったことも見たこともなくて、何をするにも恥をかくのが怖いからそういうのに参加できない人の気持ちは、お金がある人には分からないと思います。
 「遊ぶ」ことにお金を使う、ということをしたことのない人には、「遊び」というのは怖いイベントです。遊び方が分からなくて恥をかいたり、遊んだことがないという事実を知られて恥をかいたり、そういう恥をかくイベントなのです。それが、お金がないということです。やってみたことのない遊びにチャレンジしてみよう、人に教えてもらいながら新しい遊びに混ぜてもらおう、という風に思えるのは、お金のある人の発想だと思います。
 お金がないから「遊び」に使うお金がない。それはシンプルで分かりやすいですよね。でも、お金のない人から見えている「遊び」の世界は、それよりももう少し屈折しています。ずっと貧しい状態で生きてきた人の目には、世界に魔法がかかっているのです。自分だけが、みんなの知っている当たり前の「楽しみ方」をしらない。その事実によって、世界全体が自分にとってよそよそしい場所になっているのです。世界に魔法がかかっていて、自分を馬鹿にしているように見えるのです。ルールが分からない、システムが分からない、楽しむタイミングが分からない、注文の仕方が分からない。そうやって分からないことばかりで、自分が恥をかくばかりの世界が、広がっているのです。貧困は、貧しい人を取り囲む世界に魔法をかけるのです。

4.映画を観に行こう?

 Kの家でスパゲッティを食べてから、1月後くらいだったと思います。『ハリーポッター』シリーズの、映画の最新作が公開されました。そのとき、Kのご両親が、わたしを映画に誘ってくださいました。わたしの家が貧しくて、映画に行くお金がないから、かわいそうだから、映画に連れて行ってあげよう、という風にKのご両親が考えてくれたのだと、子ども心に感じました。『ハリーポッター』の小説を貸し借りしていたKとわたしだから、一緒に映画を見せてあげよう、という風にKの両親は考えたのだ、と思いました。
 でも、そうやって憐れみを向けられていることは分かっていても、やっぱり映画を観てみたかったので、わたしはお誘いに乗りました。でも、それは結局とても辛い記憶になりました。大きなワゴン車に、Kのお父さんとお母さんと一緒に乗って、1000円~2000円もするチケットを何枚も買って、数百円のジュースやポップコーンを買って、家族で並んで映画館で映画を観るという、幸せな家族の「遊び」に巻き込まれて、わたしはほとんど生きた心地がしませんでした。信じられないような額のお金――それは我が家では本当に信じられないような高額でした――が飛び交う「遊び」に身を置いて、もう、そわそわして何も楽しくありませんでした。
 Kのご両親は、優しくて良い人たちだったのだと思います。何も嫌なことをされてはいません。むしろ、わたしのことを思って、映画に誘ってくださったので、ふつうの人よりも遥かに徳のある人たちなのだと思います。Kも、温厚で育ちのよい人でした。でも、Kの家で食べたスパゲッティのことと、Kのご家族に交じって観に行った『ハリーポッター』の映画のことは、わたしのなかで、自分に貧困を突き付けられた苦い経験として、硬く、重く、ずっと、心に残り続けています。Kも、Kのご両親も何も悪くありません。でも、誰かに悪いことをされたのではなくても、自分が恥をかいたり、恥をかくのではないかと心配したり、「遊び」のはずなのに居心地の悪さを感じる、辛い思いをする、それが、お金がないということだと思います。
 わたしは、『ハリーポッター』の名前をみるたびに、そしてJ.K.ローリングがニュースをにぎわせるたびに、このことを思い出します。たんにお金がない、食べ物がない、着るものがない、という物質的なことだけではない、貧困のもつ魔力のことを、いつも思い出します。お金がないということが、人の心にどんな魔法をかけるか、人の見える世界にどんな魔法をかけるか、そのことをいつも思い出しています。

5.その話はあとにしよう?

 この記事ではずっと、『ハリーポッター』にまつわるわたしの記憶について書いてきました。KとKの両親とのこと、そして貧困がもつ魔力について、書いてきました。
 もちろん、わたしが経験したのは、大したことのない貧困だったかもしれません。もっと大変な環境を生きている人は、たくさんいると思います。でも、ツイッターなどを見ていていつも思うのは、「ここには貧しい人についての言葉はあっても、貧しい人の言葉はない」ということです。もちろんわたしのこの記事も、「かつて貧しかった(かもしれない)人の言葉」なので、その例外ではないのですが、わりとリベラル寄りのタイムラインを作っていても、ときどき貧困というものについての想像力がない人が貧困についてしゃべっている気がする、と感じることがあります。

 もちろん、それだけがこの記事を書いた動機ではありません。わたしは、もっと大事なことを最後に書きたいです。それは、この社会の中で、お金に余裕があるとは言えない家庭で生き延びているセクシュアル/ロマンティックマイノリティ―や、トランスジェンダーの子どもたちのことです。わたしは、天地がひっくり返っても子どもを育てないし、子どもは怖いから好きじゃないし、こんな酷い不正な世の中に「適応」させるために子どもを育てる=訓練するなんて、暴力的だと思っています。でも、現実に子どもたちは生きていて、そのうちの少なくない子が、貧困とされる家庭にいます。
 わたしは貧困の全てを知っているわけではありません。でも、貧困がもつ魔法の力を少し知っています。それは、人間から心のエネルギーと余裕を奪っていくという魔力です。これはわたしの体験談でしかありませんが、いつもお金の余裕がなく、絶えず働き続けなければならない、家では1分でも長く寝ていたい、そういう保護者とともに生きていて、その保護者に対して自分が抱えている性についての悩みを打ち明けるのはすごく難しいことです。貧困に由来する問題・トラブルにいつも保護者が追われている状況で、お金を稼がないのにお金ばかりかかるからお前は「ごく潰し」だ、と言われて暴力を振るわれたりするような家の中で、できるだけ自分の存在が「問題」にならないように息をひそめている子どもが、保護者に性の悩みを打ち明けるなんて、それは限りなく不可能に近いことです。万が一、話を聞いてもらえそうなタイミングで必死に悩みを打ち明けたところで、こういわれるのが関の山です―――「その話はあとにしよう」。もちろん、そうではない方もいると思います。でも、貧困には魔力があります。身体を疲れさせ、心を疲弊させ、面倒なことを考えたり生きる工夫をしたりするエネルギーを人から奪うのです。
 わたしは、この社会の中で今日も「その話はあとにしよう」と言われている子ども、そして「その話はあとにしよう」と言われるのが目に見えているから自分の抱えているトラブルを口にできないで沈黙し続けている子どものことを、想像します。そのなかには、自分のことをセクシュアル/ロマンティック/ジェンダーマイノリティとして認識するということすらできていない子どもが、沢山いると思います。
 性のマイノリティについての理解が進んでいったり、差別を禁じる法律ができていったりすることは、素晴らしいことだと思います。同性婚の合法化もその一部だけれど、そういう変化は歓迎したいです。でも、そうして人びとの理解や法律が変わっていっても、貧困の魔力に閉じ込められている家庭の子どもは、いつまでも自分のことを正しく認識できず、悩みを口にできないままです。だからわたしは、本当にこの社会がセクシュアル/ロマンティック/ジェンダーマイノリティにとって生きやすい社会になるためには、同時に貧困・経済格差もなくなっていなければならないと強く思います。
 わたしは、「LGBT」という記号がお金持ちで心に余裕のある大人たちだけのための記号になってしまうことを懸念しています。就労や住居の困難が多いトランスジェンダーが置き去りにされないように、と思いますし、貧しい家庭のなかで、今日もすべての違和感や悩みを100円均一のパンと一緒に胃の中に飲み込んでいる子どもたちにとって、「LGBT」が空虚な記号に終わってしまわないようにと願っています。
 貧困が、人の心をすべて決めてしまうわけではありません。でも、貧困の魔法は本当に強力です。だから、性のマイノリティの権利主張が、とりわけ未来を生きる子どもたちのためになされる運動や主張が、そうした貧困のことを置き去りにしていては、絶対にだめだと感じます。
 なんで貧困のことまで、セクマイの私たちの運動が考えないといけないの?と思われるかもしれません。でもわたしは、貧困がなくなるまではいつまでもその「セクマイの運動」は達成されないと強く思います。貧困がなくなるまでは、いつまでも性のマイノリティである子どもたちは魔法の言葉で自分を封じ込められ続けてしまいます。「その話はあとにしよう」。貧困には、この言葉に巨大なパワーを与えてしまう魔力があります。すべての他のことを後回しにさせてしまうような力が、貧困にはあります。だから、性のマイノリティが生きやすい社会を願う限り、私たちはいつも貧困のことを考え続ける必要があると、わたしは思うのです。