夜空_画像16

Aロマへの抑圧:Aro/Ace(4)

 こんばんは。夜のそらです。
 SAM(Split Attraction Model)を軸として、AロマンティックとAセクシュアルのあいだの関係を考える連載記事も、これで4つ目となりました。

 前回の記事では、AロマンティックというアイデンティティがAceコミュニティの内部から認識されていったこと、そしてAセクコミュニティからAロマコミュニティが別れて(分かれて)いったことについて書きました。

 今回の記事は、前回の記事でも少し触れた内容に関わります。
 それは、AセクコミュニティがAロマ当事者たちに課してきた、そして今も課し続けている、Aロマンティック(の当事者・コミュニティ)に対する抑圧についてです。

1.「先輩」としてのAセクシュアル

 日本語圏にいると信じられないことですが、いまやAセクシュアルの知名度は、英語圏(の特に若い人たち)のあいだで急速に高まっています。それは、コミュニティの努力の結晶であるということができます。
 その一方で、Aロマンティックという恋愛的指向についてのアイデンティティが、アイデンティティとして認識されるようになったのは、Aセクシュアルよりも後のことです。Aロマコミュニティの歴史は、Aセクコミュニティよりも浅いのです。
 その点からすると、Aセクコミュニティは、Aロマコミュニティにとっての「先輩」にあたります。事実、Aロマンティックというアイデンティティを認識できるようにした、SAMという革命的な発想が生まれたのはAセクコミュニティの内部であったということ、わたしは繰り返し書いてきました。

 けれども、そのように「先輩」であることで、Aセクコミュニティは、「後輩」であるAロマコミュニティ(あるいはAロマ当事者たち)にとって、抑圧的でもあり続けてきました。とても悲しいことですが、そうした歴史があり、またもしかすると、今もそうした抑圧の現状は続いています。先輩は、いつも後輩を抑圧するのです。
 だから、わたしはその歴史と現実を直視しなければならないと思っています。わたし一人にできることは少ないですが、英語圏を中心に起こってきた/起こっているそうした過ちの歴史を、日本語でも記録しておく必要があると考えています。過ちを繰り返さないためには、記憶しなければならないからです。
 これから、いくつか断片的なエピソードなどを書いていきます。どれも、お互いに関係がないように見えて、お互いに関係しているエピソードです。

2.私たちは冷酷じゃない

 前回の記事でも書いた通り、SAMを手に入れたAceコミュニティのなかの一部のAceが、SAMを間違った仕方で使ったことがありました。
 Aセクシュアルのひとは、性的な魅力を他者に感じません。そうすると、「hot な」情動をもつことのない冷徹な存在として、Aセクシュアルは誤解されがちです。「あいつらは愛を知らない冷たい、冷酷な奴らだ」というわけです。 
 そうしたマジョリティの誤解に反論することは大切なことですし、誤解を解くためにさまざまなレトリックを使うことも、もしかしたら必要なことかもしれません。けれども、上のような「冷酷だ」という誤解に反論しようとした一部のAceは、SAMを使って間違った反論をしてしまいました。

 「私たちはAセクシュアルだけど、恋愛感情は感じる。だから私たちも「愛」を知っている。私たちは冷酷なんかじゃない。ただ性的な魅力を知らないだけで、恋愛はするのだから。」

 このように反論してしまったのです。

 これは、Aセクコミュニティのなかに(たくさん)いるはずのAロマの当事者たちの尊厳を踏みにじる、最悪の反論でした。まるで、Aロマンティックの人たちは「真に冷酷」であると、認めているかのようです。まるで、人間にとって恋愛がすごく大切なものであるかのようです。恋愛さえできれば、冷酷ではない、かのようです。
 上のような反論は、コミュニティの仲間を敵に売り渡し、マジョリティの傲慢な価値観に迎合する、最低最悪のアピールだったと、言わざるを得ません。書いていて、本当に胸が苦しくなります。
 今ではこのような主張がなされることは減りました。でも、Aロマコミュニティの当事者たちからは、いまだにこうしたAセクコミュニティによる抑圧の苦しみの記憶が語られることがあります。
 私たちは、こうした過ちを決して忘れるべきではありません。わたしたちはこの過ちから学ばなければなりません。

3.半分のハート

 ふたつ目に取り上げるエピソードは、Aceフラッグがコミュニティによって選ばれるときに起きた、これも悲しい過去の事件です。
 みなさんは、「Aceフラッグ」を見たことがありますか?これです。

Aceフラッグ

 これは、2010年にAVENを中心とした当事者たちの投票によって、コミュニティのシンボルに選ばれたものですが、このフラッグが投票で選ばれるまでには、他にも様々なフラッグの候補がありました。
 そのうちのひとつは、世界最大のAセクコミュニティであるAVENのシンボルである、トライアングル(三角形)をあしらったものでした。当時のAceたちは、まさにAVENによって自らのアイデンティティを形成し、AVENコミュニティがとりもなおさずAceコミュニティのシンボルだったので、これは、ある意味では当然の流れだったかもしれません。
 しかし、このトライアングルをあしらうデザインは、コミュニティのなかで批判され、最終的にも選ばれませんでした。なぜなら、Aセクシュアルの当事者は、AVENの外にもいるはずだからです。英語を読まない、話さない、書かないAセクシュアルだって、世界にはいるはずなのに、英語圏の一部のAceだけが集うAVENのシンボルをAsexuality(Aセク)そのもののシンボルにするのは間違っている、と考えられたのですね。これは、当時のコミュニティが賢い判断をしたと思います。

 このトライアングルとは別に、有力視されつつも選ばれなかったデザインのモチーフがありました。それは、ハートマーク(♡)を半分だけデザインした、そうしたマークをあしらうフラッグでした。
 ハートマークが半分だけになっている。この「半分」の意味が皆さんには理解できますか??
 これは、「性愛はないけど恋愛はする」、そういう意味での半分です。人間のハート(Love)は性愛と恋愛とでできていて、性的な愛(sexual love)は無いけれど恋愛の愛(romantic love)はある。そういう意味です。
 これが、最初に挙げた「私たちは冷酷じゃない」と同じレトリックになっていることは、皆さんすぐに気づくと思います。AceコミュニティのなかにはAロマンティックの人も沢山いるのに、コミュニティのシンボルを「半分のハート」にするなんて、あり得ません。それに、人間のハートが性愛と恋愛の2つ(だけ)でできているなんて、そんな考え方をAceコミュニティが掲げるなんて、これもあり得ません。
 結局、この「半分のハート」は、コミュニティのシンボルには選ばれませんでした。その決断自体は、正しかった。それでも、こうした投票の過程で、Aceコミュニティの中にいたはずのAロマ当事者をないがしろにするような雰囲気があったのは、悲しいことでした。私たち、日本語のAセクコミュニティのなかでは、決してそうしたことは起きてほしくないと思います。
 ちなみに、Aceフラッグの選定過程については、Asexual Archieveさんのページが(いつものことですが)非常によくまとまっていますのでご参照ください。

4.A - Spec

 これまでの記事でも書いてきたように、Aセクシュアルコミュニティは、デミセクシュアルやグレィセクシュアルなど、0~1までの性愛のグラデーション(のA寄り)を生きている人たちと共に成り立っています。
 こうしたグラデーションの広がりを、英語で「スペクトラム(spectrum)」と言います。ですので、いわゆる「性愛者(=Alloセク)」でない、Aセクシュアルのスペクトラムを生きている人たちのことを、省略して「Ace-spec」という風に表記することがあります。Aセクシュアルアンブレラの中を生きている当事者を、まるっとまとめて指す名前ですね。
 ちなみに、スペクトラムやアンブレラについては以下の記事で解説をしましたのでご覧ください。

 さて、Ace-specが「Aセクシュアル・スペクトラム」の仲間を指すように、「Aro-spec」が、「Aロマンティック・スペクトラム」の仲間を指すために使われます。
 しかし、Aセクシュアルコミュニティにおいては、しばしば「Ace-spec」が「A-spec」という風に省略して書かれることがあります。でも、これだとAceのスペクトラムなのか、Aro(Aロマ)のスペクトラムなのか、本当は分からないはずです。でも、一部のAセクの人たちは、Aセクシュアルのことだけを指して、A-specという言葉を使っています。
 これは、Aロマの人たちを無視した、とても傲慢な言葉づかいです。あたかも、「A」の記号を使ってもいいのは「先輩」であるAセクシュアルだけだ、と言わんばかりです。
 こうした「A-spec」の傲慢な使い方は、最近でも繰り返しコミュニティのなかで注意喚起がなされています。逆に言えば、そういう風にAロマの人たちのことをないがしろにするAceが、たくさんいるということです。
 もしかすると、「Ace-spec」を「A-spec」と書くのは、ちょっとしたことかもしれません。でも、そのちょっとしたことで、誰かのアイデンティティをないがしろにしているのだとしたら、それは、「ちょっとしたこと」ではありません。

5.アセクシャル

 ここまで、英語圏のAセクコミュニティのなかで起きた、Aロマへの抑圧の事例を紹介してきました。そして、この記事の最後に、悩んだのですが、日本語圏のことについて、書いておきたいと思います。
 皆さんご存知の通り、日本語の「アセクシャル(アセクシュアル)」という言葉には、異なる2つの意味があります。一つ目の意味は、「他者に性的な魅力を感じない」という性的指向を指します。これは、わたしがずっと「Aセクシュアル」と書いているのと同じ意味です。
 その一方で、日本語圏では、「他者に性的な魅力も、恋愛的な魅力もどちらも感じない」という【性的・恋愛的指向】のアイデンティティを指すために、「アセクシャル」という言葉が使われることもあります。
 わたしは、そのような言葉遣いを否定するつもりは全くありません。なぜなら、自分にぴったりのラベルを見つけること、そしてアイデンティティを獲得することが、私たちAceにとってどれだけ大切な経験で、ラベルというものがどれだけ重要か、わたしも知っているからです。
 しかし、少しだけ考えていただきたいな、と思うこともあります。
 「アセクシャル」という一語によって、性愛の(不在の)ことも、恋愛の(不在の)ことも、どちらも指すという、この言葉遣いは、「性愛=セクシャル」に恋愛が従属する、という優劣を含んでいます。これは、自分にとってAロマンティックの方がアイデンティティの重みがあるような、そういったAroaceの存在を無視してしまっています。
 それに、他者に性的な魅力は感じるけれど、恋愛的な魅力を感じない、そういった「セクシュアルーAロマンティック」の人からしてみれば、あるいは、性的な指向については特にアイデンティティを定めていないけれど、自分がAロマであるということははっきりと意識している、そういったAロマの人からしてみれば、「アセクシャル」という言葉のなかに「恋愛的魅力を感じないこと(Aromanticism)」が含意されているというのは、あまり気持ちのよいことではないでしょう。
 さらに悪いことに、一部のメディアではいまだに、「アセクシャル=恋愛感情がない」という風に説明されることがあります。これについては、もう誤った説明であると、言ってよいと思います。

 繰り返しますが、わたしは「性愛も恋愛も感じない」という指向を指すために「アセクシャル」というラベルを使うことは、否定されてはならないと思っています。ラベルは、アイデンティティの核です。そして、誰も誰かのアイデンティティを否定すべきではありません。
 それでも、もしそういう風に「アセクシャル」というラベルを使うことがあるのなら、できたらで構わないので、それが「AロマンティックーAセクシュアル(アロマ+アセク)」という風にも表現できるということを、添えていただけないでしょうか。
 言葉には、コミュニティの歴史があり、当事者たちの命が詰まっています。だから、アセクシャルについての日本語独自の言葉遣いを、わたしは否定したくないです。でも、言葉に命が詰まっているからこそ、だからこそ、その言葉を使うときには、「性愛>恋愛」の優劣を作っていないかどうか、また性愛を経験するAロマの当事者を困惑させる言葉遣いをしていないかどうか、少しだけ気にしていただきたい、と思うのです。

 わたし(夜のそら)は、英語圏のAセクコミュニティのなかで、アイデンティティを獲得しました。ですから、日本語圏の歴史には詳しくないですし、わたしが「アセクシャル」という言葉について何か言うのは、不適切かもしれません。
 でも、AセクシュアルコミュニティによるAロマンティック(コミュニティ・当事者)への抑圧という、英語圏での過ちの歴史、そして現状の抑圧の様子を、わたしは少しだけ知っています。だからこそ、日本語圏でそのような抑圧が起きる環境を少しでも減らしておきたい、と思うのです。

6.クィアな連帯に向けて

 わたしたちAセクシュアルは、小さな群れです。
 巨大で、強大で、わたしたちのアイデンティティと人生を簡単に踏みつぶすことのできる異性愛(‐異性恋愛)中心の社会の中で、ほそぼそとコミュニティを作り、自分のアイデンティティを支えてくれる言葉を手に入れるために、まるで広大な砂漠でビー玉を見つけ出すように、さまよわなければなりません。
 でも、だからといって、Aセクコミュニティが誰かのアイデンティティを「踏む」ことがありえない、ということにはなりません。

 わたしは、Aセクコミュニティは、きちんとAロマコミュニティと別れるべきだと思っています。

 そのうえで、わたしはAセクコミュニティはAロマコミュニティと連帯できるようであってほしい、とも思っています。そのためにこそ、私たちはきちんと「違い」を認識しておく必要があります。
 最近読んだ「クィア」についての本に、こう書いてありました。「クィア(ムーヴメント)」とは、差異を認め合いながら連帯することだ、と。
 わたしは、このブログの3つのポリシーを書いたときに、「Aセクシュアルはクィアである」と書きました。そのときは軽い気持ちで「クィア(queer)」という言葉を使っていましたが、今は少しずつこの言葉を使うことの重みが分かってきました。
 AセクコミュニティがAロマ(コミュニティ・当事者)を抑圧している限り、クィアな連帯はありません。抑圧をやめ、きちんとコミュニティが分かれ、互いを尊重できるようになって、はじめてクィアな連帯は成り立つのだとわたしは信じています。

 わたしたちは小さな群れです。だからこそ、小さな声を聴くことができます。小さな違いが、大きな意味を持つことも知っています。小さな手を握って、互いに支え合って、生き延びていきたいと思うのです。

 最後に、Aro/Aceを句切る「スラッシュ」について。この区切りは、単なる並列ではありません。AceがAroを抑圧してきた・している事実があります。その歪みをきちんと見つめて、Aro・Aceの違いを尊重して、そうして手を取り合えるような未来を、わたしは夢みています。