SAM:Aro/Ace(2)
こんばんは。夜のそらです。
前回から、Aro/Aceと題して、AロマンティックとAセクシュアルの間の関係について考える連載を始めました。その最初の記事では、Aロマンティックについての定義など、英語圏の考え方をお届けしました。まだお読みでない方は、お時間のある時にご覧ください。
今回は、Aro/Aceの連載の第2回目です。この記事では、SAMという、とても大切な考え方についてご紹介します。
1.SAMとは
SAMは、現在のAセク/Aロマコミュニティのもっとも大切な考え方のひとつです。
まず、SAM は Split Attraction Model の頭文字をとったものです。
そのまま日本語にすると「魅力を分割するモデル」となります。
ここで「分割」されているのは、他の人から感じる「魅力」のことです。もっと簡単に言うと、他の人のことを「好き」だ、と思うときの、その気持ちをいろいろ区分けして考えましょう、というのがSAMです。
2.「好きになる性」?
LGBTについて説明するときに、「好きになる性」という言葉が出てきますよね。「好きになる性」が自分の性別と違う人は、ヘテロセクシュアル(異性愛者)と呼ばれます。それに対して、「好きになる性」が同性の人は、ホモセクシュアル(同性愛者/広い意味でのゲィ)と呼ばれます。
でも、この「好きになる」って、なんの「好き」なのでしょうか。
それはもしかすると、恋愛感情かも知れません。いえいえ、それだけではなくて、性的なこと(キスやセックス)をしたいという気持ちのことを、「好き」だと言っているのかもしれません。
正解は、きっと全部なのだと思います。キュンキュンする相手の性別、恋愛する相手の性別、一緒に家族になりたいと思う相手の性別、セックスをしたいと感じる相手の性別、それらを全部あわせて「好きになる性」と呼んでいるのだと思います。
3.恋愛と性愛
でも、皆さんに考えてほしいのです。
まずは、具体的な個人の話として。恋愛感情を抱いたり、一緒に暮らしたいと考えたり相手と、セックスをしたいと考える相手って、同じでなくてもいいと思いませんか??
事実として、恋愛的に「好き」でない人ともセックスしたいと考える人、世の中にはいますよね。それとは逆に、恋愛を経て、結婚して家族になった相手のことを、確かに「好き」だけれど、セックスをしたいとは別に思わない、そういったパートナーシップも、普通にありえますよね。
Aさんという相手がいて、性的には魅力を感じるけど、恋愛しているわけではない。ありえますよね。Bさんという相手がいて、恋愛関係をずっと結んでいたいけど、セックスの対象ではない。ありえますよね。
こういった現実のケースから、覚えてほしいことがあります。
恋愛の「好き」と、性愛の「好き」は、いつも一緒に、いつも同時に経験されている必要はないはず、ということ。
この考え方を、今度は「好きになる性」全体に応用してみます。
たとえば、性的な魅力を感じる相手はいつも異性だけれど、恋愛の「好き」の気持ちは、同性にも異性にもどっちも感じる人。想像できますよね。だって、性愛の「好き」と恋愛の「好き」は、別のものでありうるので。
ほかにも、恋愛的には誰にも惹かれない(=誰も好きにならない)けれど、性愛の意味での「好き」の気持ちを、異性の相手にはときどき抱くことがある人。想像できますよね。だって、繰り返しますが、性愛と恋愛は、いつも一緒に経験される必要がないからです。
4.性的指向と恋愛的指向
世の中の大半のひとは、異性愛者ということになっています。これは、いったい何を意味しているのでしょう?
この記事でずっとわたしは、性愛と恋愛は別々に経験されてもかまわないはず、ということを書いてきました。でも、世の中ではあまりそういう考え方は浸透していません。なぜなら、世の中の大半の「異性愛者」は、恋愛対象になるような相手がいつも異性だけだし、性愛の対象となる相手も、またいつも異性だけだからです。
「好きになる性」が異性であるとは、そういうことです。
でも、先ほど皆さんに想像していただいたことを、ここで思い出してほしいのです。たとえば、性愛の「好き」は異性にしか向かないけれど、恋愛の「好き」は異性にも同性にも向かう人。性愛の「好き」は同性に向かうけれど、恋愛の「好き」は誰にも向かわない人。
数は少ないかも知れませんが、こういった経験をする人は、現実に確かに存在しています。確かに存在しているのです。
では、こういった人は何と呼べばよいのでしょうか?? 異性愛者でしょうか?? 両性愛者でしょうか?? 同性愛者でしょうか?
―――どれもしっくりこない、というのが実情でしょう。
実際、そういった経験をする人は、自分の性的指向のアイデンティティについて、「ふつうの」ひとよりも悩むかもしれません。
SAMという考え方が現れ、また現在も定着しているのは、そういった、性愛の「好き」が向かう性別の傾向と、恋愛の「好き」が向かう傾向とが完全には一致しない、そういった経験をする人が現実にいるからです。
SAMは、「好き」を分割する・区分する考え方です。それは何よりも、恋愛と性愛を区別します。
そうしてSAMは、「性的指向(sexual orientation)」という言葉とは違う、「恋愛的指向(romantic orientation)」という言葉を生み出すことになりました。
このとき、「性的指向」は、どんな性別に対して「性的魅力(sexual attraction)」を感じる傾向にあるか、ということを指しています。簡単に言えば、性的な意味で「好き」になる相手は基本的にどういったジェンダーか、ということです。
同じように「恋愛的傾向」は、どんな性別に対して「恋愛的魅力(romantic attraction)」を感じる傾向にあるか、を示します。簡単に言えば、恋愛対象となるのはどのジェンダーですか、ということです。
これらの言葉を使うと、今日わたしがずっと書いてきたことは、次のように整理できます。
性的な魅力を感じる性別の傾向と、恋愛的な魅力を感じる性別の傾向は、一致していなくてもいい。恋愛の「好き」を感じる相手の性別と、性愛の「好き」を感じる相手の性別は、一致していなくてもいい。
これがSAMの考え方です。相手を「好き」だと感じる、その「魅力」を分けて考えるのが、SAMです。
5.自分の名前を取り戻す
SAMの考え方が現れたことで、「好きになる性」のような曖昧な言葉によっては自分の経験を上手く表現できなかったマイノリティが、自分の本当の名前(アイデンティティ)を取り戻すことができました。
例えば、異性だけから性的な魅力を感じるけれど、恋愛的な魅力は異性からも同性からも感じる人。こういった人は「バイロマンティック・ヘテロセクシュアル」の人です。
同じように、誰からも恋愛的な魅力は感じないけれど、異性の人から性的な魅力を感じることはある人。こういった人は「Aロマンティック・ヘテロセクシュアル」の人です。
あとはもう、だいたいどんな感じか分かりますよね。
「ホモロマンティック・ヘテロセクシュアル」、「ヘテロロマンティック・Aセクシュアル」、そして「Aロマンティック・Aセクシュアル」など、組み合わせは自由自在です。
もしかしたら、世の中の多くの人にはSAMなんて必要ないかもしれません。異性愛者は異性愛者、それでいいじゃん。同性愛者は同性愛者、それでいいじゃん。そういう風に思うかもしれません。
でも、違うのです。多くの人にとって必要ないものだとしても、SAMを必要とする人がいるのです。ヘテロセクシュアルやホモセクシュアル、バイセクシュアルやAセクシュアルなどの言葉だけでは、自分の経験をうまく言い表すことのできないマイノリティがいるのです。
想像して欲しいのです。性愛と恋愛の「好き」の傾向が、違った風に経験されるひとたちが、どんな風に自分を探し求めることになるか。そして、そういったマイノリティたちに、SAMがどれだけ大きな救いを与えてきたか。
6.SAMの誕生
これで、SAMの説明は終わりです。そして、わたしの連載のタイトルである「Aro/Ace」の「/」(スラッシュ)の意味も、ひとつご理解いただけたかなと思います。このスラッシュは、恋愛的指向と性的指向を区別する、SAMそのものの分割線(split)です。
最後に、もうひとつだけ、皆さんに覚えてほしいことがあります。
これまで説明してきたように、SAMはあらゆる恋愛的指向/性的指向のバリエーション、組み合わせを表現するために使えるものです。
でも、覚えておいて欲しいことがあります。SAMが誕生したのは、Aセクシュアルコミュニティの中からだったということ。
誰からも性的な魅力を感じないAセクシュアルの人たち。誰かとセックスをしたいと主体的には思わないAセクシュアルの人たち。
そんなAceの当事者たちが集まって、自分の経験を反省したとき、性愛は誰からも感じないけれど、恋愛感情は感じることがある、そういったAce当事者たちがいることが分かりました。
SAMは、そこに誕生しました。恋愛の「好き」と性愛の「好き」って、違ってもいいんじゃないか。性愛の「好き」は抱かないAセクシュアルだけど、恋愛の「好き」は抱くことがある。この自分のセクシュアリティをどうやって表現したらいいのか。ここにSAMは誕生しました。
今はもう、SAMはAceコミュニティだけのものではありません。
でも、SAMがAceコミュニティから生まれた考え方だということは、わたしはいつまでも記憶されていて欲しいと思います。
そして、SAMが確立するまでにAce当事者たちが感じていただろう葛藤や悩みも、わたしはいつも覚えていたいのです。SAMを生み出して普及させた先輩たちに感謝しつつ、いつも覚えていたいのです。