夜空18

Aの政治:Aro/Ace(6)

 こんばんは。夜のそらです。

 これまで「Aro/Ace」と題して、5つの記事を書いてきました。AロマンティックとAセクシュアルの違いや、魅力を分割するモデル(SAM)、Aセクシュアル(コミュ二ティ)によるAロマへの抑圧、SAMの功罪。。。わたしなりに大切だと思うことを、Aro(Aロマ)とAce(Aセク)を分ける「/」に注目しつつ、書いてきました。この記事で、Aro/Aceの連載は終わりにしようと思います。
 連載の最後は、これまでとはちょっと違います。わたしを救ってくれた、英語圏のAセクシュアル/Aロマンティックコミュニティに対する、不満というか、批判というか、最近すこし違和感に思っていることも書きます。それは、政治(ポリティクス)についてです。

1.自分が誰だか分からない

 誰にも性的に惹かれない、Aセクシュアル。誰にも恋愛感情を抱かない、Aロマンティック。そうした経験を生きていく中で一番わずらわしいこと、一番悩ましいこと、それは、「自分が誰か分からないこと」ではないかと、わたしは思います。

 世の中は、恋愛とセックスにすごくすごく価値を置いている。そして周りの人もみんな、恋愛したり、セックスをしたいと思っていたり、するらしい。それなのに、自分はどうして??
 自分はもしかして、「ふつうの」異性愛者とは違うのかも…。
 だとすれば、自分は同性愛者なの…?
 でも、同性に対してとりわけ性的に/恋愛的に魅力を感じる、というわけでもないし……。
 もしかすると、実は、自分はバイセクシュアルなのかもしれない。パンセクシュアルなのかもしれない。この、何となくみんなが「好き」な気持ちが、世の中のひとの言う「恋愛感情」や「性的な興奮」なのかもしれない。
 でも、でも、でも、でも……。

 AceやAroとして大人になっていく過程には、この「でも、でも、わたしは…」がつきものではないかと、わたしは思います。
 「自分が誰か分からない」。それが、AceやAroを苦しめている(苦しめてきた)、もっとも大きな悩みだと、わたしは思うのです。

2.アイデンティティ

 だからこそ、Aセクシュアルとか、Aロマンティックという「ラベル」に出会うことは、特別な「救い」をわたしたちにもたらします。

 自分の経験が、説明できる。自分が誰だか、分かる。
 わたしは、Aロマンティックだ/Aセクシュアルだ。

 こうしたアイデンティティの獲得が、Ace/Aroの当事者にとっては、大きな救いとなります。これまで「誰だか分らなかった」自分が「誰なのか分かる」からです。よそよそしい存在だった自分と、和解することができるからです。自分の経験に名前がつくこと、自分の経験が説明できること、他にも自分と同じような経験をする人がいると知ること。それは、Ace/Aroの人たちにとっては、奇跡のように大切な経験なのです。
 だからこそ、わたしたちAセクコミュニティ/Aロマコミュニティは、言葉を増やし、考え方を鍛えてきました。
 魅力を分割するモデル(SAM)によって、性的指向と恋愛的指向を分ける発想を手に入れ、「スペクトラム」の考え方によって、白か黒かはっきりしない「グレー」の領域のひとたちとも、同じ仲間として共にコミュニティを作ってきました。
 また、連載の(5)で書いたようなSAMの弊害(SAMの浸透によって生み出された「分かち書き」文化の弊害)が弊害として批判されるのも、それがわたしたちの経験を塗り潰してしまうことがあるからです。

 わたしたちは、自分の経験を言葉にする手段を、ずっと探し求めてきました。自分の経験を大切にするコミュニティを、ずっと模索してきました。自分の経験を誇りに思えるように、互いにエンパワーメントを試みてきました。それは、自分の経験から疎外される、自分が誰だか分からないという悩みから、わたしたち自身を解放するためでした。

3.内向き

 自分たちの経験に名前がつくこと。自分たちの経験が尊重されること。自分と同じ経験をしている仲間と出会うこと。それは、言うまでもなくとても大切なことです。とってもとっても貴重なことで、何万回何億回言っても、言い足りないくらい大切なことです。
 でも、英語圏のTumblerを中心とするAce(Aro)コミュニティに出入りする中で、最近わたし(夜のそら)が気になっていることがあります。それは、自分たちの「経験」ばかりを見ていて、コミュニティが内向きになっていないかな、ということです。
 自分の感じ方を見つめて、言葉にすることにAce-Aroコミュニティは多くの努力を費やしてきましたが、わたしたちが生きている世界(社会)のあり方に目を向けることから、わたしたちは逃げてきたのではないかな、とわたしは思うようになりました。

 そもそも、どうして自分の性的指向・恋愛的指向についての正しいラベルを捜すことが、Aro/Aceにとっては大変なのでしょうか。どうして、自分が誰だか分からないという、苦しい思いを、Aro/Aceはしなければならないのでしょうか。
 それは、人間は誰だって誰かに恋愛するし、人間は誰だって誰かとセックスをしたいに決まっているのだという強固な信念が、わたしたちの世界をすみずみまで支配しているからです。Ace/Aroが、あたかも「いないこと」にされているからです。

 どうしてわたしたちAce/Aroは、自分の経験に名前がついて、同じ仲間を見つけることで救われるのでしょうか。
 それは、この世の中が、恋愛とセックス中心で回っていて、恋愛やセックスのない人間関係、親しい関係を作るモデルが、存在していないからです。 

 じゃぁ、とわたしは思います。きちんと自分たちを苦しめているものを直視しようよ、と。わたしたちに「自分が誰か」を悩ませてきた社会の悪さを、きちんと指摘しようよ、と思います。わたしたちが気兼ねなく人間関係を作ることを妨げているものの正体を、きちんと暴こうよ、と思います。
 自分の経験を言葉にする。経験を共有できる仲間を見つける。それは、本当にとっても価値あることです。でも、そうして自分の経験ばかりを見る「内向き」のまなざしを、もう少し、悪い社会のあり方に、間違った世間の常識にも向けてみたいと、とわたしは思うようになりました。

4.Aの政治

 だからわたしは、本当にゆっくり、一歩ずつですが、「Aの政治」を始めたいと思いました。
 「政治」といっても、選挙に出たりするわけではありません。わたしたちが生きている社会の仕組みや法律、社会のなかで当たり前に信じられている常識について、その「悪さ」をきちんと考えたい、ということです。そうして、間違っていると思うことを、きちんと「間違っている」と批判できるようになりたい、ということです。もちろん、自分が社会の様々な「悪さ」によって被った抑圧からの、恨みとか呪いの感情を表現することも、わたしは立派な「政治=ポリティクス」だと思っています。

 それは、もしかしたら現実社会には何の影響もないかもしれません。というか、一人一人のそういう努力は、おそらくは結果には現れないでしょう。簡単に言えば無駄に終わるでしょう。
 でも、いつか私たちの社会が、Ace/Aroの子どもの成長を歓迎し、Ace/Aroとして生きていくことが当たり前に認められて、Ace/Aroであっても学校や家庭、職場でまったく嫌な思いをしない日を夢見るのだとしたら、その未来は、いつか誰かが「Aの政治」を始めなければいつまでも来ません。
 社会の「悪さ」をきちんと言葉にして、批判して、社会の方がいい加減変わらなければならないはずだ、ということを言葉にして、互いにそのために繋がるポリティクスを、誰かが始めなければならないと思います。

5.ダイバーシティに飲み込まれる前に

 もちろん、すでにそうした「Aの政治」は様々なところで始まっています。世界最大のAセクシュアルコミュニティであるAVENは、Aセクシュアルを可視化し(Visibility)、Aセクシュアルについて教育する(Education)という、とてもポリティカルな団体として始まりました。そして日本でも、Ace/Aroの存在を広めたり、Acespecs/Arospecsの仲間を結びつける様々な実践、コミュニティの構築が、試みられています。

 でも、最近のAVENのForum(掲示板)や、tumblerのコミュニティ、そして日本語のツイッターの様子を見ていて、すこし不安に思うこともあります。それは、このままだとAce/Aroが「ダイバーシティ」の波に飲み込まれてしまう、というものです。

 ダイバーシティは、とても怖いものです。それは、なんでも許容し、なんでも包摂します。でも、注意しなければなりません。「ダイバーシティ」に価値を認める、とマジョリティ社会が言うとき、社会の側は、何も変わるつもりがないということ。

 ダイバーシティ社会は言います。「なるほど、恋愛をしない人もいるのね。変わった人だけど、そういう生き方もいいと思うよ。」
 ダイバーシティ社会は言います。「そうか、人とセックスしたいと思わない人もいるんだね。すこし変わってると思うけど、そういう人がいてもおかしくないよね。」

 これがダイバーシティです。

 これでは、絶対にダメです。

 わたしは、マジョリティ社会からのそんな「お恵み」が欲しいのではありません。社会が「悪い」のだから、社会が変わるべきです。

 ダイバーシティ社会が「あなたは変わった人だけど、そんな人がいてもいいと思う」と言うとき、ダイバーシティ社会は、恋愛やセックスに(大きな)価値を認めて、世の中の人間関係や、成人としてのアイデンティティを恋愛やセックスを中心に置いて考えるような自分たちの考え方を、ひとつも撤回していません。誰かと親しくなるためには「恋愛」感情がなければならず、親しい人とはセックスしたくなるに違いない、人間は恋愛してセックスするのが「ふつう」だ。そういう間違った常識を、ダイバーシティ社会はひとつも反省していません。
 ダイバーシティは、社会に「異分子」を包摂します。でも、社会がその「異分子」を飲み込んだところで、社会は痛くも痒くもないのです。

 もちろん、「ダイバーシティ」が進めば、生きやすくなる人は増えるでしょう。それはそれでよいことだと思います。でもそれは、社会が「例外扱い」として存在を許容してくれているだけです。
 残念ながら、わたしには、それに甘んじる心の余裕がもうありません。自分が誰か分からない悩みに苦しめられて、学校でも家庭でも職場でも、いつまでも自分のアイデンティティを隠さなければならない、自分の指向を「病気だ」などと否定されてきて、今さら「多様性だから例外として認めてあげます」と言われたところで、わたしは、到底許せません。
 多様性に包摂されることを望むAro/Aceの仲間を、わたしは憎んだりはしません。でも、申し訳ありませんが、わたしは社会に優しく包摂されること拒否します。わたしは、社会が恋愛と性愛に重きを置くのをやめるまで、つまり、この社会が根元から変わるまで、社会を絶対に許しません。
 わたしは、亀よりもゆっくりですが、「Aの政治」の側につきます。このブログも、そのためのものです。

6.終わりに

 この連載では、Aro/Aceの間の区別、線引きの「/」(スラッシュ・split)について、特に考えてきました。
 「Aの政治」を進めていくために、AロマコミュニティとAセクコミュニティは手を組むことができると、わたしは思います。異性愛=異性恋愛を当たり前のものとしている社会の考え方では、SAMなんてそれ自体で奇妙な考え方だし、マジョリティの側からしてみれば、AroだろうがAceだろうが、「変な人たち」には違いないからです。
 だから、Aceの人たちと、Aroの人たちが、それぞれの場所から自分の見えている「悪さ」を言葉にしていくとき、私たちは同じものを敵に回しているはずです。だからAceとAroは、互いの違いを尊重しながら、手をつないで一緒に「政治(ポリティクス)」を進めていくことができるはずです。
 そうして、互いの違いを認めながら、一緒に手を取って進んでいく、そういう意味での「/」(split)で、わたしはAro/Aceは繋がっていて欲しいと思います。自分の経験を大切にするという「内向き」の精神も大事にしつつ、ときには前を向いて、自分たちを押しつぶしてくる「ハンマー」を、しっかり見据えていきたいと思うのです。

 ここまで読んで下さり、本当にありがとうございました。