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SAMの弊害・曖昧さを守る:Aro/Ace(5)

 こんばんは。夜のそらです。
 AロマとAセクのあいだの関係を考えるこの連載も、5つ目の記事になりました。Aロマンティックについての英語圏の定義の紹介から初めて、SAMという考え方をプロデュースして、そろそろ連載も終わりに近づいてきた感があります。
 そんななか、今回の記事では、SAMの功罪(いい面と悪い面)について書こうと思います。AセクをAロマから切り分けることを可能にしたSAMという考え方ですが、最近のAce・Aroコミュニティでは、SAMがもたらした弊害(悪い面)も認識されるようになってきました。そのことについて、書こうと思います。

1.SAMの大切さ

 「恋愛的魅力」を「性的魅力」と分けて考えましょう、ということを基本とするSAM(「魅力を分割するモデル」Split Attraction Model)は、そのことによって、「性的指向」と「恋愛的指向」を分けて考えるという、革命的な発想を私たちにもたらしました。
 そのことによって、性的な魅力を感じる性(ジェンダー)の傾向と、恋愛的な魅力を感じる性(ジェンダー)の傾向とが一致しない人たちは、自分にぴったりのアイデンティティのラベルを見つけられるようになりました。
 なお、SAMについては連載の2回目で解説したので、興味のある方はこちらをご覧ください。

 こうしたSAMの考え方がどれだけ重要であるかは、言うまでもありません。日本語圏には、まだまだSAMという発想自体は浸透していませんが、それでも、おそらく徐々に浸透していくだろうと、わたしは信じています。
 私たちは、SAMを手に入れた後の時代を生きています。もう、SAMのない時代には戻れません。これは、英語圏でも日本語圏でも同じです。

2.分割の文化

 SAMの考え方が浸透したことによって、Aセク・Aロマコミュニティに属する当事者たちのあいだでは、「●●ロマンティック・××セクシュアル」という風にして、自らのアイデンティティを名指す文化が定着しました。
 例えば、バイロマンティック・Aセクシュアルの人は、恋愛的な魅力は男女(+それ以上)の性の両方に感じることがあるけれど、性的な魅力は誰からも感じない、という人のことです。
 あるいは、Aロマンティック・ホモセクシュアルの人は、誰からも恋愛的な魅力は感じないけれど、同性からは性的な魅力を感じることがある、そういった人のことです。
 このように、SAMは、恋愛の傾向と性愛の傾向を分けて考えることによって、私たちの経験をより細かく、より正しく記述することを可能にしました。自分のことを、はっきりホモセクシュアルだと言い切れない(恋愛はするけど性愛は皆無だから…)とか、あるいは自分のことをAセクシュアルだと言い切る自信はない(恋愛はすることがあるから…)といった人たちに対して、SAMは救いをもたらしたのです。
 魅力を分割するというSAMの考え方によって、自分自身のアイデンティティを分けて考えることが可能になり、そのことによって、たくさんのマイノリティが救いを得ました。性愛と恋愛を違った風に経験する人たちが、自分のアイデンティティを「発見」したのです。
 SAMのそうした利便性と、革新性が理解されるようになるにつれて、先ほども書いたように、とりわけAロマ・Aセクコミュニティの内部では、自分のアイデンティティを「●●ロマンティック・××セクシュアル」という風に記述する文化が浸透しました。今では、これはかなり支配的な文化となっています。実際、Ace・Aroコミュニティに出入りしている人たちの非常に多くの人が、そのような分割したアイデンティティ表記をプロフィールに記載しています。

3.好きなプロ野球チーム

 そのような素晴らしいSAMの考え方と、アイデンティティの分かち書きの文化には、けれども、弊害があります。とくに、最近は「SAMの弊害」が口にされる機会は増えてきました。もちろんそれは、SAMが広く受け入れられたからこその指摘でもあります。
 そもそも、SAMが素晴らしかったのは、これまでの「性的指向」とか「好きになる指向」などの曖昧な言葉によっては自分の経験を言葉にできない、そういったマイノリティがいたからです。しかし、上で見たように「分割の文化」が広がっていった結果、皮肉なことにも、そうした文化によってむしろ自分の経験が覆い隠されてしまう、自分の経験がただしく言葉にできなくなる、そういった人たちが現れてしまったのです。
 その弊害を特に経験することになったのは、Aroace(Aロマンティック・Aセクシュアル)のひとでした。Aroaceのひとは、誰からも性的な魅力を感じないし、誰からも恋愛的な魅力を感じません。このように書くと、なるほど、その人は「Aロマンティック」であり、同時に「Aセクシュアル」でもあるのね、という風に思うかもしれません。
 でも、慎重に考えなければならないこともあります。

 ちょっと、ここで想像をしてください。皆さんの周りの人がみんな日本のプロ野球が大好きで、ずっと野球の話ばかりをしているとしましょう。そして、(仮の話ですが)みなさんは野球に一切興味を持たないとしましょう。ちなみに、日本のプロ野球は、セ・リーグとパ・リーグの2つのリーグに分かれていて、それぞれ6球団で、年間のリーグ戦をしています。
 そうした(仮の)状況で、皆さんは次のように聞かれます。「あなたの好きなプロ野球チームはどこなの?」と。皆さんは答えます。「プロ野球には興味がないから、好きなプロ野球チームはないよ」と。
 これで話は終わり、かと思いきや、相手は次のように続けます。「なるほど、あなたは【好きなせ・リーグの球団がない】し、それと同時に【好きなパ・リーグの球団がない】、そんな人なんだね」と。
 この相手の回答は、どこか変です。皆さんは、そもそもプロ野球自体に興味がないのです。ですから、好きな球団は存在しないよ、という皆さんの回答は、セ・リーグとかパ・リーグとか、関係ないはずです。セ・だろうがパ・だろうが、皆さんには好きな球団が存在しないのです。それが、皆さんの感覚であり、皆さんの経験です。
 そんななか、会話の相手は、「好きなセ・リーグの球団がない」し、なおかつ「好きなパ・リーグの球団がない」ような人として、あなたをカテゴライズしようとしています。
 確かに、ふだんセ・リーグばっかり観ている人のなかには、「好きなセ・リーグの球団はあるけど、好きなパリーグの球団はない」という人も多いでしょう。それはそれで、OKです。
 でも、皆さんはそういった人とは全然ちがいます。みなさんは、そもそもプロ野球に興味が無いので、セ・リーグとパ・リーグに分けてものを考えていないのです。

4.分かれていないものを分ける暴力

 以上のプロ野球のはなしと同じようなことが、SAMについても起こってしまうことがあります。
 先ほども書いたように、Aroaceの人は、確かに「Aロマンティック」であり、同時に「Aセクシュアル」です。それは、間違いではありません。
 でも、そうしたAroaceの人のなかには、そもそも「性愛」と「恋愛」とを別々のものとして経験していない、というひとがいます。それも、結構な割合で、います。それはまるで、そもそもプロ野球自体に興味がない人と同じです。プロ野球は確かにセ・リーグとパ・リーグに分かれていますが、あなたは、そもそも野球自体に興味がないのです。
 同じように、確かに性愛と恋愛をはっきり別々に経験している人がいて、SAMがなければ自分のアイデンティティを正しく(しっくりくるように)記述することはできない人がいることは、確かです。でも、そもそも「性愛と恋愛」を自分の中ではっきり区別しておらず、そうした「性愛&恋愛」の混然としたものをトータルに自分は経験していないのだ、そういう風に感じているAroaceもたくさんいます。
 そういったAroaceの人からしてみれば、自分に「Aロマンティック・Aセクシュアル」というラベルを引き受けるのは、ちょっと気持ちの悪いことです。だって、自分の中では、それは2つに分かれていないからです。
 思い出してください。SAMのすばらしさ。それは、これまで自分の経験に上手く名前を与えることのできなかったマイノリティが、自分の経験を名指すための考え方の枠組みを手に入れたことでした。
 しかし、SAMが浸透して、アイデンティティを「分かち書き」する文化がコミュニティのなかで支配的になっていくにつれて、むしろ自分の経験から自分が疎外されていく、そういう風に感じる人もまた増えてしまいました。
 これが、代表的なSAMの弊害です。あるいは、もうちょっと正確に言えば、SAMが浸透していった結果として支配的になった「分かち書き文化」の弊害です。
 ちなみに、Aロマの立場から、こうした弊害を分かりやすく指摘しているTumblerの投稿がありますので、ご紹介しておきます。全訳してもいいのですが、許可をとっていないのでリンクだけ貼っておきます。

5.曖昧さを認めること

 先ほどの話は、Aroaceの人の話ですが、SAMの分かち書き文化の弊害は、Aroace以外の人にも及ぶことがあります。例えば、自分ははっきりとAロマンティックであると自認しているけれど、性的指向については「よく分からない」とか、あるいは「自分にとってそこまで重要でない」とか、そういった人は、単に自分のことを「Aロマンティック」としてアイデンティファイしています。
 そうしたAロマの人にとって、SAMに基づいた「分かち書き」の文化は、自分にはなじまない風習となってしまうでしょう。そうした人は、もしかしたら、誰もが「分かち書き」で自分のアイデンティティを説明する文化を、息苦しいものと感じるかもしれません。これもまた、SAMの弊害です。
 SAMのすばらしさは、これまで誰も言葉にできなかった分割線を見つけ出すことで、名前を持たないマイノリティに名前を与えたことです。それは、「分けて考えること」のすばらしさです。
 その「分けて考える文化」はしかし、同時に、「分かれていないはずのもの」を誤って分けてしまう、そういったナイフにもなってしまいます。

 分けなければ見えないものがある。それは、真理です。AセクシュアルとAロマンティックを「分ける」ことは、とても大切なことです。しかし同時に、分けてしまうことで見えなくなることもあります。性愛と恋愛をまじりあったものとして認識している人や、どちらかについては「よく分からない」という人、そういった人のもつ「曖昧さ」の経験は、SAMのナイフによって、むしろ傷ついてしまうかもしれません。
 大切なのは、Aロマ・Aセクのスペクトラムにいる私たちの経験が尊重されることです。そのためには、曖昧なものを曖昧なままにしておく、そのこともまた必要なのです。

6.SAMと共に歩む

 曖昧さを曖昧さとして残しておくこと。そのことを許さないように機能してしまったら、それはSAMの弊害となります。
 Aceコミュニティのなかで特にその弊害が指摘されたのは、Playing Cardの文化が流行ったときでした。私たちAceは、トランプのエース(数字の1です)を、自分たちのシンボルにすることがあります。そんななか、自分の恋愛的な指向とAセクシュアリティの組み合わせを、トランプの4つのマークに対応させよう、というシンボリズムが流行したことがありました。
 例えば、スペードのエース(♠)は「Aロマンティック・Aセクシュアル」、ハートのエース(♡)は「ロマンティック・Aセクシュアル」、などです。(※クローバーとダイヤは諸説あるので省略します)。そうしてシンボルを見つけて、マークをプロフィールに記載したり、マークごとに分かれてチャットしたり、していたのです。
 しかし、このPlaying Cardの文化が流行したことで、自分をどこかのカードに割り振らないといけない、そういう圧力が働いてしまうのだとしたら、それは危険なことです。実際、Playing Cardの遊びが流行すると同時に、「無理に自分をどこかに当てはめなくてもいい」、「Aセクシュアルというアイデンティティに加えて、必ずロマンティックについてもはっきりとしたアイデンティティを持っている必要はない」という注意喚起も、たくさんなされるようになりました。
 こうしたPlaying Cardとは関係がない文脈でも、SAMを無理に自分に当てはめなくていいよ、という注意喚起は、今ではたくさんなされるようになりました。まさに、そのとおり。だれも、無理して自分をカテゴライズする必要なんてないのです。

 SAMは、これまで見えないところに切り込みを入れることで、たくさんのマイノリティを救いました。でも、曖昧さを曖昧なままにしておくことを許さないようになってしまったら、本末転倒です。
 SAMは、便利です。革新的です。でも、SAMには弊害もあります。とはいえ、もうSAMのない時代には戻れません。私たちにできるのは、SAMと共に歩んでいくことだけです。
 誰の経験も、誰のアイデンティティも否定されないように、いつも目を凝らして進んでいきましょう。

 最後に、わたしの連載タイトルである、「Aro/Ace」のあいだの「/」(split)について。この分割線は、必要なひとには必要な分割線です。でも、その分割線によって、むしろ自分の経験が(意味もなく)切り刻まれてしまう、そういう人もいるかもしれません。

 性愛と恋愛を区別すると同時に、よく分からない、曖昧な領域もまた尊重できる、そういった文化がコミュニティに根付くことを願います。