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奴隷から抜け出すために役割を生きる

基本的に今も奴隷制度はまだまだ残ってるんだよ

自分で所属先を選べるから、そんなものは無いと勘違いしているだけで、就職というのは奴隷制度まんま
そのまま受け継がれている

住む場所と所属先が選べる奴隷というだけ
自由なんてなくて、買われた時間は動けない軟禁状態

ファミリーっていう言葉の語源はファミリア
ファミリアっていうのは奴隷も含めた世帯の事

奴隷を長く雇って雇用主に依存させるためにする策の1つが、家族を作らせるという事

恋愛ができて子も作れる。という自由を与えているようで、
子を養うためにも働き続けないといけないため、奴隷から抜け出す事がより困難になる

家族を作らせる事で、よりファミリアの拘束力が強まる
逃げられなくなる
そしてそこの家で生まれた子は、よりスムーズにそのファミリアの奴隷として使える人間になる
雇い主の都合の良い人間になる

生まれた時からそうだから違和感を持たず、親の真似をして奴隷に育つ

そうしたら他から奴隷を買う必要もなくなる
育てるコストも下がる
反旗をひるがえすリスクも下がる

その一家の安定性が保たれる

で、今までの社会もまんまこれ

ちなみに「奴隷」という言葉の意味は
他人の所有物となる。という事
所有者の命令は絶対で、売買されたり労働を強いられること

だから就職活動をしていると鬱になる。とか、働きたくない。と思うのはすごく当たり前な話なんだと思う。

自分の親を見て、会社に行ったり働いたりする事に良いイメージを育ててない人からしたら、働く=奴隷と言う無意識の図式が潜在意識に入ってしまっている

この奴隷から抜け出す方法は自分の役割を見つけるという事
強いられるのではなく自主的に担う

それが奴隷からの解放であり、自己実現になるんだと思う

そもそも働く事が嫌いな人間なんてこの世に1人もいないと思う
働く事が嫌いなのではなく、役割を強いられる事が嫌いなんだと思う。

人間には各々役割がある
それは生まれる前に決めてきた魂の約束なのか、生育環境で見つけていく脳内の報酬回路なのか何なのか分からないが、絶対に一人一人に役割がある

ないとしても役割を生きないといけない
そうしないと病気になる
病気になるという事はどこかがおかしいという事だから、やっぱり一人一人には何か役割があるという結論になる。

鬱はこの役割の強制矯正装置な気もする
あなたその役割じゃないですよ!ていう事に気づかせるための矯正装置。

役割というのを言い換えると使命なのかもしれないが
使命というと壮大な感じがする
役割っていうのは子どもの時から無自覚に担っていたりする

家族や友人のために無自覚にしている事だったりする。
意識して無理して努力してやっている事の方が自覚があって勘違いしやすいが
あぁ。それ?そういえばやってるね。という事の方が役割に近い。

料理で人のエネルギーを高める
安らぐ綺麗な空間を作る
心が軽くなる声がけをする
真面目に働いて安定性をもたらす
優しく触れることで癒す
温かい目で見守って応援する
楽しく生きて周りの人を元気付ける
などなど

サラッとやっている事だったりする。
それが役割
その役割を生きる
何か1つでいい。
1人1つ、役割を生きられれば上手く廻るようにできている。
こんだけの数、人がいるんだから本来はそれで十分。

最初は家族にしていたことが、友人、学校、社会へと広がっていく。

でも社会は奴隷を育てる教育ばかりだから、役割を捨てて義務で生きるようになる。
言われたからやらないといけない。という義務で生きる。

そうすると本来の役割を生きる人が減るから、別の人が補填。
無理をするから疲れる。1人1人の負荷も増える。もしくはそこに穴があく。
1人で色々な役割を負う必要が出てくる場合もある。


義務で生きるとみんな同じように、同じテストを受けて、その中で高得点を取らないといけない

違うとしても絶対この枠からは出ないように
と暗黙のルールがある
カゴの中で生きることは必須条件になる

それぞれの役割を見出したり特性を伸ばしたりする方向ではなく
同じ山をいかに早く登るかを教える

だからその山は登りたくない。なんて思ってしまったら人生が終わったように感じてしまう

他の山を選ぶ事は孤独な選択だ
みんなと違う山を選ぶのは寂しいし怖い
みんなと同じ山なら、より良い登り方もたくさん教えてもらえる
でも違う山を選んだら登り方も分からない
人は何よりも孤独を嫌う
だからまた、みんなと同じ山に戻って行く人もたくさんいる

でも本来、一つの山に人が密集しているのがおかしな話である

人気の差はあれどいろんな山があるんだから適度にバラけるのが自然だろう


誰も登っていない、と思っても
いざ山に入ってみると結構人がいたりもする
同じ山を選んだ人であっても

あら、あなたもこの山に来たの?
結構険しいよー

と脅してくる人もいる

でも自分で選んだのであればそんな言葉は関係ない
険しくても登ればいずれゴールがある

目指したくないゴールへの十歩より
目指したいゴールへの一歩に喜びを感じられるのが人だと思う

嫌でも好きでも一歩は一歩になる
じゃあ好きな一歩の方が良い


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