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古典廃止論について

早書きの練習中だ。
私は見返し癖が多く、頻度に欠けるためである。

前書き

正式な形容の仕方は「古文・漢文不要論争」というらしい。
私はこの議題が毎年、一部ではあるが喧しく論争を繰り返されている、温度を失わない議題であるということを知らなかった。今となってはこういったことに不明であることを恥じる気持ちはあまりないが、興味まで失せているわけでは――今後もそうではないと思いたいがために、いまこれを記している。

はやい時期から歴史というジャンルに魅入られて育った私の思考法は、こういった事態に直面した際、いつだって「なぜこのような話が議題にのぼるようになったのか」を考える。
誰が提唱者であるかを想定するのだ。提唱者がその事柄に対してはじめて気づきを得た人では必ずしもないけれど、とにかく提唱者がわかればそれに越したことはなく、判明すれば其の人の生い立ち「育った国や環境、時代背景」がいくらかわかる。出来うるなら祖先や交友関係も辿りたい。が、どうあれ精査にも限度があるし、つまりはひとつの思想における着想の得方が啓示天啓であるというのは原則有り得ないだろう、という思考法だ。
思考法というのも烏滸がましい程に、至極当たり前のことを書いているが。

この件に関してはそこまで取り組むつもりはない。
界隈の予備情報はほぼない状態でこの記事を書いているという点で、いきなり先の話はなんだったのかといえる程に落第生だが、いっそ先入観がない状態で記してみようと思った次第だからご容赦願いたい。

不要論と必要論

古文・漢文不要論争には、不要論と必要論というものがある。
相互の論述には程度の差が、当然ながらあるだろう。これについては極端な意見――たとえば古文は必修であり知らないとは愚人の如し、或いは古文は無益であり振り翳すは狂人の如し、である様なことなどを述べているはずがない。もしそのような最高純度として白黒はっきりつけるような論争なら、どちらも狂っていると思えるので、檻の中の禽獣をみるような気持ちで眺めてやるほうが両者も本懐に違いない。

原点の推論

この双つの論に関しては、どちらが先かという議論は必要ない。
常識的に考えれば不要論が先であるに決まっている。
それ故に(というわけでもないが)最初は、試験の配点のことにまつわることが発端だったのではないか、と思う。
古文と漢文を縮小して現文の配点比率を上げろ、という意見だ。

このような意見を述べようとする心理とはきっとかんたんなことで、
古文と漢文は、まず読めない。
現代文は、そもそも読める。解けるかどうかは、ともかくとして。
位置づけとしては恐らく外語(英語)に対する意識と同じだろう。
つまり、それらに苦手意識をもった生徒諸君の"たわごと"が始まりだったと思われる。

今も変わっていなければ共セともに古文や漢文の配点は50点ずつのはずで、現文の100点と等分であるという配点割合だろうが、私が受験生であったというほぼ20年前の時期を思い返せば、現代文の満点は個人の自信はともかく目指すだけ無駄であって、反して古文と漢文は満点がおおいに期待できる分野――という場裡だったように思える。であるから、私はともかくとしてある程度受験に対して真摯な生徒であれば、上記のようないっそ立場が不利になる意見はあまり述べそうにないように思われるし、無論教師陣がそういった安直といえそうな策に手をだすかといわれると、それも微妙に思える。

学生が入ってこないと経営が成り立たない私学などであれば、そういった我儘な意見に耳を傾けることはままあるだろうが、ということはやはり、繰り言だが受験戦争という修羅場の対岸のそのまた外にいるような、其の日そのひの授業にエンターテイメント性を求める、退屈嫌いな生徒たちの意見が初手であったのではないかと思う。
そこで、ひとまずは不要論の原点を「古典を読めるようになるという努力をなるべくしたくない現国が大好きな生粋の現代日本人たる生徒たちの叫び」であると仮定し、次項ではそれらの叫びがどのように学び舎である大学及び文科省側を動かしたか、その結果をみていきたい。

不要論が学堂に与えた影響の多寡

家から一歩も出ていないレベルの調査内容で申し訳ないが、まずは古典の要不を論じていると思われる場あるいは典拠がないか、探してみた。
「古典不要」「古典廃止」「古典否定」という3つの検索ワードでアマゾンの本カテゴリで検索した結果、公開日の日付が古い順で一番古そうな書籍は、以下だった。

2019年である。
話が逸れるが勝又教授の中公新書から出ている親孝行の本は名著だと思うので
興味がある方はぜひ手にとってみてください。
中国の"孝"の歴史、それらを批判した福沢諭吉等の予備知識があると尚面白いはずです。

また、ネットにおける掲示板5ch(旧2ch)における、「古文」というタイトルがついたスレッドで一番古そうなものは、以下だった。

2011年である。
伸び率からみて、まあ妥当な年代に思えなくもない印象である。
内容には目を通してはいない。

調べている自分自身が異常な睡魔に襲われそうになるほどに当過程の資料価値は灰燼だが、そこは堪えるとして――仮にこの問題提起が2011年だったとしよう。

そしてつぎに、グーグル検索によると、

2022年度からスタートした高校国語の新しい学習指導要領では、高校1年生の国語の授業における古文、漢文の比重が2分の1から3分の1に縮小されている。 さらに、大学入試の国語からも古文や漢文を除く大学や学部が増えている。

と、ある。文科省の指導要領は我々一般人でも解説が読めるので、それは後にしておくとして、まずは各社予備校の入試分析シートから、主に古・漢典の試験が難化したのか易化したのか、指向をみていく。
以下は関西のトップ校であり国語が大好きな京都大学の文系古文の傾向を参考にしている。

2019 難化 - 漢文を絡めた出題はなかったが、総合的に見れば標準的。(Z会)
2020 標準 - 現代文は難化、古文は例年並み。(Z会)
2021 標準 - 本文量は僅減少、難易度は例年並み。(河合)
2022 標準 - 出題数の増加はあるものの、難易度は例年並み。(河合)
2023 標準 - 文章展開を正確に押さえ、丁寧に逐語訳する演習を積んでいた
                    受験生であれば、実力を発揮できる。(Z会)
2024 難化 - 文系に対する要求水準は、依然として高い。(駿台)

京大の古文は「これ注ついてないの?」という感想を抱く問題が多かった気がするが、それはともかく各社予備校の分析シートを鵜呑みにすれば、とくに易化したという事実はみられない。
つまり、古文の授業時間が短縮されたことと、少なくとも学堂における当学問の軽視不要という結論には結びつかないということだ。
ただ、当然これも少なくとも、この大学に関しては――の話にはなるし、また日本一の大学である東大は調べていないから、興味がある方は独自で調べてほしい。

次項は、脇に置いていた高校国語の新しい学習指導要領の概略を記す。

2022年度学習指導要領の内容

調べればすぐに出てくるのでわざわざ貼るまでもないが、本文は以下である。

https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2010/12/28/1282000_02.pdf

私が実際に読んでまとめた箇所は、以下に記してある。
最初に前提しておくが、古文に関係する箇所しか読んでいないので、
現文との対比は望めない。

第1節 改訂の趣旨
1 改訂の経緯
2 国語科改訂の趣旨
3 国語科改訂の要点

第2節 国語科の目標
第5節 古典A
第6節 古典B

個人的にはこの指導要領のなかに「古典は必要としない」と断言まではいかなくとも、そう感じさせるようなニュアンスがあることを期待した(ないとこれ以上記事を書く気が失せるため)が、私の確認した範囲ではそういった記述はなかった。まあ、見落としがあるかもしれないから、より精査を重ねたい方は以上のアドレスから本文へ飛んでいただくのが最善である。

本文の表現をほぼ真似て書くが、時代がいかに変わろうとも普遍的な教養があって、またかつて教養の大部分は古典などの読書を通じて得られてきたことは言を俟たない。いつの時代であっても伝統を継承しつつ、また新たな文化を創造していくことは大切なことではあるが、知識とそれを活用することの重要性が増すこれからの社会においては、蓄積された様々な「知」が継承され、新たな創造や工夫につながっていくことが一層求められている。
古典の指導については、我が国の言語文化を享受し継承・発展させるため、生涯にわたって古典に親しむ態度を育成する指導を重視し、漢字の指導についても実生活や他教科等の学習における使用、読書活動の充実に資するため、確実な習得が図れるよう指導を充実する――。

なかなかいいことを書くものだと同意を禁じ得ないが、不要派は恐らくこれらの主意を度外視し、本文中の多様性やグローバル化という語彙を巧みに拡大解釈したのではないだろうか。
無論そもそも読んでいない可能性も捨てきれないが、ここまで古典・歴史を学ぶ枢要性を説いている文章に対して、縮小なら理解できなくもないが、
選択自由という前提すら無視して不要という極論染みた語彙選択でもって論陣を展開するのは甚だナンセンスである、と私は感じる。

結論

本音というものはどうしても直情的になりがちで、その時々の自身の溜飲をさげる効能はあっても、状況をおおきく変えるような回天さを発揮することはなかなかにない。そうさせるには、やはり突いて動かし、或いは穿き毀すほどの建前がいる。
この論題の場合は、その本音を虚飾によって隠し、借りてでも大義名分まで昇華させる必要があったのだろう。よくある自身の正当化作業だが、そこで標榜として掲げられたのが「実用的な教育化」なのだろう。
実用的な教育とは、正確には調べていないのでさっぱりわからないが、恐らくはエクセルが使えたり、グラフィックデザインが出来たり、プログラミングが出来たりなどという、ITリテラシーチックなことを指すのだろう。
ということは、我が国の言語文化を享受し継承・発展させるため、生涯にわたって古典に親しむ行為は、とどのつまり虚業ということになるだろうか。もしそうであるならば、恐らくキリスト教が伝来してその教典をはじめて聞いた九州の農夫の驚きもかくやと思える。

教育とは、社会に向けて逸材を輩出するための重要過程である。
もし江戸期において(主に幕府家に対する)御恩や奉公などという概念を、幼少期から徹底的に教化されるような機構が全藩とはいえぬまでも少なくとも彦根藩と江戸旗本衆にあったとしたら、幕末動乱の社会もその教化された輩のために、もう少し変容しているはずである。

社会とはIT業態だけを指すわけでは無論ないのだから、実用的な教育を謳うのであれば、社会の業種業態を出来る限り隈なく教えることこそ「実用的な教育」であって、ITばかり教えているのであればそれは本質的な実学ではない。これだけ多様性が叫ばれる社会で、私のような仕事も含めれば本当にありとあらゆる業種があるし、それを探し見つけるという行為を児童生徒たちによる自主性に期待するだけとあっては、それはもうそもそも実用的な社会ではないのではないだろうか。
結論を急ぐようだが、そういった否定派が想像すらしていないだろう古典というものに携わるありとあらゆる業種がこの社会に存在する限り、古典廃止はその実学推進に背くことになるわけで、不要派はそれすら社会に必要ないといっているのだろうか。そこまでは調べていないからわからないが、少なくとも自分自身に必要がないからといって、それを他者にまで波及させようとするのは流石に傲岸である。

私の結論としては、この程度の論旨は一意見にとどめるべきであって、
わざわざ高尚なものぶらないでもよい、という話だ。
きつい言い方かもしれないが。

私論(古典というものの位置づけ)

古典と歴史の違いとは、なんだろうか。
これについては明確な定義があると思われるが、私は古典とは歴史上の作品群のことをさし、歴史とは――まあそれそのものだと思っている。
べつにそれらに明治前とか後とか、元号の線引はまああってもいいが、たとえば漱石などという現代文御用達作家も、いずれ古典となりゆく運命にあることを踏まえるべきであって、藤原の某が書いた歌が古典になるのなら、500年後には私のこのノートでさえ古典になる。まず、残ってはいまいが。
要は、現文は、準古典なのだ。

私は、古典とはつまるところ、節度であって、礼節であると考えている。
そして節度や礼儀とは、美術であって教養である、とも。
衣食足りて礼節を知ると故事にあるように、動物的本能としての生命維持に、礼節は必要ではない。飢えて凍えている人間に対して「聖人は困窮することがないと聞いているから、お前は聖人ではない」と普通なら殴られるようなことを説いても詮無いのだ。
しかしながら、それらを踏まえた上で「足るを知る者は富む」ことを教えて、そこではじめて礼節が生じる。蛇足にはなるが「君子はもとから窮しているもので、小人は窮したら濫れるんだよね」と言葉の暴力でもって相手を教化することも出来なくはないが、それはもう宗教の分野だ。
異常であって、普通ではない。

究極の美とは――美術とは、極論は無駄である。
私は前項まで不要論について反駁(?)していたのだろうが、必要論もこの点については留意すべきであると考えている。
繰り言だが、暴力を振るう飲んだくれの親父がのこした借金の返済と病がちな妹の養育費の獲得に日々あけくれる生徒に、古典は必ずしも必要ではない。古典の教養がその子を救うだろうという意識は、自ずと救われるのであれば無論止める必要はないが、教授側がたとえ自分自身が過去にそれによって救われたという実績があったとしても、それは自分が特殊な感性であったというだけで、絶対性を強調した押し付けをはじめると不治の病にきく山水とか、そういった出どころのわからない新興宗教じみた感覚とほぼかわらないということを知るべきだ。
まあ、過去に存在した人間の事績を知ることによって倫理観が醸成され、共感性等を得て救われることもあるとは思うので、教えるならそれとなく靴箱などに手書きの封書を相談すべき弁護士や役所の番号とあわせて置いておくくらいが無難だろう。

世の中には人それぞれ教養の多寡があり、それらが多くは意識上下で差別を生む。それとは別に――例えばお金、実績や身分などのいろいろな要素でも、差別をうんでいる。
これはとどのつまり、「あるのかないのか」というだけの話だ。

あるものは仕方がないし、ないものも仕方がないではないか。
それを相互に外から別の理論をひっぱってきて正当化しようとするから話がこじれるのであって、この程度の争いの本質とは「好きか嫌いか」だけの話に終始していいものだ。
「礼儀がない奴とはなしていると不愉快になる」と「堅苦しいのは嫌いや」
は、どちらもそれだけで一応成立している。感情論として。
古典要不の諍いは、この程度の感情論にとどめるべきではないだろうか。

ちなみに、私の友人には一種の知識気狂いが一人いて、たとえば景色などを単なる情景としてみることが出来ないらしい。花畑をみて不吉な色合わせだとか、空を見てよくない星の配置だとか、名前をみて顔をしかめたりとか、紹介がこれだけだと単なる異常者だが、"ある"ということも究極は悲哀に陥るのだと考えれば、あるない論争も儚いものにみえてくる。

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