十二月の旅人

 1

 その日の晩、僕はいつものようにアパートの自室で、一人で過ごしていた。
 ちょっと前に話題になっていたサスペンス映画のDVDをレンタルしてきて、何とはなしに流していた。実は昨日も一度見ているのだが、これがぼんやり見ていただけでは話の筋が今ひとつ分かりづらく、それで今日もう一度見返していたのだけれど、やっぱり途中でストーリーが分からなくなってしまった。
 これは自分の理解力がどうのというより、映画自体が外れだったのではないか、と漠然と考えていたその時、隣室から、どさり、と何かが倒れるような音が聞こえてきた。
 ――ちなみに隣は僕がこのアパートに入居して以来ずっと入居者がなく、空室のままだった。なので本来は物音などするはずもなかったのだが、その音の正体に僕は思い当たる節があったので、慌てず騒がずテレビを消して、僕はいそいそと自分の部屋を出て行った。
 向かった先は、今しがた物音がした隣の部屋。
 あまり好ましい事とはいえないのだけれど……実は隣室の入り口のドアは鍵が壊れていて、自由に出入りする事が出来るのだった。
 僕は軽くノックをすると、そっとドアを開け、中を覗き込んだ。
 畳の上に、見知らぬ若い男性が大の字になって伸びていた。……と言っても意識を失っていたのではなくてうめき声をかすかに上げて、今まさに上体を起こそうとしているところだった。起き抜けに、目の前に僕が立っているという、その状況が今ひとつ飲み込めていない様子だった。
 呆然としている彼に向かって、僕はいかにも呑気な……間の抜けた、と言っていいような挨拶の言葉を投げかけた。
「やあ、こんばんは」
 相手はどうリアクションをしていいのかわからない、と言った様子で目を白黒させるばかりだった。
 まだ身体に力が入らないのか、彼は起き上がることもおぼつかなかった。そんな彼に肩を貸して、僕はどうにかして彼を隣の自室へと担ぎ込む。
 台所をひっかき回してみたけれど、あいにく食材のたぐいをほとんど切らしていて、インスタントの袋麺ぐらいしか見つからなかった。お腹が減っているというので僕は取り敢えずラーメンを作り始める。そんな僕の行動そのものを彼は不思議そうにみていたし、出来上がりを待っている間も、彼は部屋の中を実に不思議そうな顔で何度も見回していた。
 築四十年という、びっくりするぐらいおんぼろな物件だ。だからと言って何が珍しいわけでもないとは思う。だが彼には、それがやっぱり珍しいのだろう。
 出来上がったラーメンを、彼は最初はおそるおそる口にした。――この人もそうだけど、ここに来る人たちは皆決まって、箸をうまく使うことが出来なかった。それを見たり使ったりするのも当然、初めてなのだろうと思う。
 彼がここを出ていく前に、あらためて所持品を確認する。それも、いつも恒例になっている作業だった。どこにでもいそうな何の変哲もない服装をしてはいるし、所持品にも不審な点はない。そこは彼らも現地を出発する時点で念入りに確認はしているだろうけど、念を入れすぎるに越したことはなかった。
 やがて、彼は食事の礼を手短に告げて、夜まだ暗いうちにどこかへと出かけていった。彼が――彼やその仲間が、これからどこへ行くのか、僕は知らない。道が分からなくなって戻ってきた人が前に一人いたことはいたけれど、それを除けば彼らは全員が全員、二度とここへは戻っては来なかった。
 そんなにひっきりなしに、見知らぬ来客が頻繁に訪れるというのは、確かに奇妙な状況だとは思う。一体いつからこんな事になったのかというと……そう、あれは忘れもしない、二〇一二年の大晦日の晩の事だった。
 とくに深い理由があったわけでもないのに、僕は年末年始の休みを郷里には戻らずに、自分のアパートでのんびりと過ごしていた。一人っきりで面白いのか面白くないのかよく分からない年の瀬のテレビなどぼんやりと見ながら、チャンネルを変えるべきかどうかという取るに足りない事をずっと考え続けていた、丁度そんな折だった。
 隣の部屋で、どさりと……やけに大きな物音が響いたのだった。
 僕が知る限り、隣室に住人はずっと長いこといないはずだった。家賃が安いのだけが取り柄の安アパート、笑ってしまうくらいあちこちぼろぼろで、僕としてはそんな独特の風情が気に入って何となく住み続けていたけれど、近く取り壊して建て直すという話もちらほらと聞こえてきていた。そんな物件に今更――それもこんな年の瀬の、年をまたごうという夜中に引っ越しをしてくる人がいるとも思えない。泥棒か何かにしても、こんなぼろアパートでリスクに見合った収穫があるという風には考えないのではないか。
 ともあれ、夜中に一人っきりの折に隣室から不審な物音、というシチュエーションは小心者の僕としてはあまり心穏やかではいられなかった。無視を決め込むべきか、意を決して物音の正体を確かめるべきか、思い悩んだあげく……僕はおもむろに立ち上がって、隣室を窺ってみることにした。
 部屋を出て、隣の部屋の戸口へ向かう。上着を着てこなかったので夜風が冷たかった。締め切られたドアと真っ暗な小窓を見て、時期はずれの引っ越しという仮説その1は正解では無さそうだと言うことが分かった。
 僕はドアの前で少し迷ってから――思い切ってノックしてみた。
 もちろん、返事はない……まあ僕だったら来客のあてもないのに誰かが突然ノックなどしようものなら、だんまりを決め込んだかも知れなかったけれど。なのでそこできびすを返しても良かったのだけれど、よせばいいのにドアノブに手をかけて、回してみた。
 意外なことに、鍵はかかっていなかった。
 それが壊れているからだ、というのはあとになって分かったことで、この時はまだ施錠されていない事自体も不可解に思えたし、それだけにとにかくドアの向こうに異常がないことを確認してほっとしたい、という一心で、おそるおそる向こう側を覗き込んでみたのだった。
 何もない、隣と酷似した間取りの畳の部屋がそこにはあるだけだった……と言いたいところだけれど、そうではなかった。畳の部屋には違いなかったけど、その畳の上に、誰か倒れ込んでいる人影があったのだった。
 この人は一体何故、こんな場所に倒れているのだろうか。しかもそれは目標を見誤った間抜けな泥棒でも、寒空をどうにかしのごうと目論んだホームレスのおじさんとかでもなく、僕とそれほど年齢も違わなさそうな、若い女の人だったのだ。
 これはもしかして誰かが置き去りにしていった死体か何かなのでは、という思いが脳裏をよぎる。それを確かめた方がよいのだろうか。それともさっさと110番なり119番なりに通報して、あとは知らんふりを決め込むべきか。
 僕が迷っているうちに、不意にその女性がむくりと上体を起こして、僕はひっと声を上げて後ずさった。心底驚かされたものの、死体ではないかという仮説その2が覆されたのは何よりと言えた。
 彼女はすっと右手をあげて、何かを制止するような仕草を見せた。きっと目の前にいる僕は、今にも悲鳴をあげそうな顔でもしていたのだろう。どのみちこのアパートに今入居者は僕しかいなかったから、多少声を上げたところで問題はなかっただろうけど。
「驚かせてごめんなさい。……今日は何日でしたっけ?」
「何日、って……」
 この状況で真っ先にする質問がそれなのか。そもそもこの年の瀬の一番最後の日に、まさか日付をど忘れするなどという事があり得るだろうか。僕は泡を食うやら、呆れ果てるやら、どうにも名状しがたい思いで口をぱくぱくさせながらも、どうにかまともな答えを吐いた。
「今日は大晦日だよ。十二月の三十一日だよ。今日で二〇一二年が終わるんだ」
「二〇一二年十二月三十一日」
 彼女は何かを確かめるように、はっきりと、そしてゆっくり慎重な口ぶりで、今日という日付を復唱した。そして一瞬何かを考え込む素振りを見せたかと思うと、おもむろにこんな事を言い出すのだった。
「……もしかして荻川さん、こんな風にこの場所に人がいたりした事は、今日が初めてですか?」
「そうだけど……って、え? どうして僕の名前を知ってるんだ!?」
「それは」
 と、彼女はしたり顔で言葉を切った。僕のリアクションなどすっかり想定のうちだ、と言いたげな様子で。
 そして何を言い出すのかと思えば。
「……それは、少々込み入った話になりますので、順を追ってお話しします」
 こんな場所も何なので、荻川さんの部屋に行きましょう……そんな厚かましい物言いに、僕はついに何も言い返せずに素直に応じるより他なかった。


 2

 正体不明の不審人物とはいえ、この部屋に女性が立ち入るのはきわめて珍しい事だったので、彼女がいざ戸口をくぐる段になって今更のように緊張し始めたのだが、どうしようもない。招かれざるとはいえ客には違いないので、何か飲み物でも、と尋ねかけてみると、彼女は少し照れたように、ココアが飲みたい、と言うのだった。
「そんなもの、あったっけかな……?」
 ぼやきながら台所の戸棚を探ってみると、未開封のインスタントのミルクココアが見つかった。瓶の中蓋をぺりぺりとめくって、スプーンも使わずに目分量でカップに粉を落とし、ポットのお湯を注いでかき混ぜる。
 その間、彼女はと言えば物珍しそうに部屋の中を見回していた。来客があるとは想定外だったので、片付けが行き届いているとは言いがたく、初対面の若い女性にじろじろと見回されてしまうのはちょっとした罰ゲームのようだった。
 そんな彼女に、僕はココアのカップを無言で差し出す。彼女は笑顔でそれを受け取ると、一口すすって小さくつぶやいた。
「……おいしいです」
「インスタントだけどね」
 僕は僕で、出涸らしのアッサムティーのティーバッグで味の薄い紅茶を入れると、ようやく正体不明の彼女と相対した。
「それで?」
「まあ、一通りお話しはさせていただきます。それをどう受け止めるのか、それは荻川さん次第ですので」
 なぜか余裕たっぷりの構えの彼女に、僕が食い下がる格好で、とにかく質問してみた。
「まず、どうして僕の名前を知っているの」
「それは。私は以前にも、ここに来た事があるからです」
 彼女はきっぱりとそう言い放ったが、僕にはまるで見に覚えのない話だった。誰かと混同するまでもなく全く見に覚えのないという、なかなか寂しいというか、哀しい身の上の僕なのであった。
「そんなはずはない。君と僕はたぶん初対面だと思うけど?」
 だから、何か勘違いしているとしたら彼女の方なのだ。そうに決まっている――のだが、だとしたら何故彼女が僕の名前を知っているのかが説明出来ない。その点について、彼女には是非とも納得の行く回答してもらいたいところなのだが、彼女はそんな僕の追求の姿勢をはぐらかすように、全然思いもよらない質問を切り返してきた。
「荻川さんは、サイエンスフィクションはお好きですか?」
 疑問符だらけでどうにかなりそうな僕の動揺など差し置いて、この女性は一体何を言い出すのだろうか。
 話題をそらすな、と叫びたいところだったが、あいにくそれが出来ない小心者なのが僕なのだった。渋々、訊かれた問いに返答する。
「まあ……SF映画くらいなら、時々は見ないこともないけど」
「でしたら、タイムトラベルという用語についての説明はしなくても大丈夫ですよね」
 不意に飛び出してきた、まったく唐突な言葉。
「……ちょ、ちょっと待って」
 この人は、一体、何を言っているのか。
 今この場でお互い好きなSF映画のタイトルを告白しあっているわけでもない以上、彼女の口から飛び出したそのキーワードは、彼女がここに姿を表した事実にまつわるもののはずだった。
 つまるところは。
「それじゃ……それじゃ君は、自分が未来から来たとでも言いたいわけ?」
 まさかそんな、と危うく声に出して叫びそうな僕だったが、彼女はまったく自分のペースで、粛々と話の先を続けるのだった。
「いつから来たのか、というような詳細をお伝えしてはいけない規則になっていますので、ここでは説明はいたしません。何故来たのか、理由や目的も、残念ながら話してはいけない事になっています。なので、私が未来から来たということを証明する事はおそらく出来ないでしょうし、それで信じてもらえないというのであれば、それはそれで仕方がないかと」
「当たり前でしょ。普通はそんなこと、真に受けるはずがないでしょうに」
「しかし、今日、この日この時に、私がここにやってきたということはまぎれもない事実です。そして荻川さんが私の話を信じるにせよ信じないにせよ、いずれ私以外にも、同じように未来から来た人間が次々とここに現れるように、これからなっていく事でしょう」
 ですので荻川さんには特別に、私達の事情を少しでも把握しておいてもらいたいのです……彼女はそんな風に言うのだった。
 彼女の話はこうだった。
 彼女の時代の人々が発明した時間旅行の方法……それはサイエンス・フィクション的に言えば「ワームホール」なる時空間にあいた穴を利用する、というものだった。曰く、そもそも時空間には元々そんな風に呼称し得るような「穴」が存在していて、それが異なる時代同士を繋いでいるのだという。それがどこに繋がっていて、どの場所に存在するのかは、「穴」を発見出来る技術を使って、実際に見つけてみるまでは分からないのだという事だった。移動したい先の時間軸に向けて空いている穴を発見し、装置を使ってそこを通り抜けられるようにする……それが、彼女の時代の技術者が実用化にこぎ着けた、時間旅行の手段だった。
「一度発見され通行が可能になったワームホールは、およそ半年から一年の間、通行を可能にするだけの安定性を保持すると言われています。そのワームホールを使って、私よりも以前に、すでに何人かのエージェントがこちらと私達の時代との行き来を成功させているのですよ。ただ、必ずしもあちらとこちらの時間軸が厳密に並行に連結しているというわけではなく、多少の誤差がどうしても出てしまうのです」
「誤差」
「ええ。数日から数週間。もしかしたら、場合によっては一ヶ月とか、二ヶ月以上になることも。私よりも先に出発して、私が出発する前にすでに帰還を果たしているエージェントは、この時代での滞在および任務をつつがなく終えている、という事になります。でも荻川さんは時間旅行者を見たのが私が初めてだと言いました。つまり、このワームホールの出口側の通行可能な期間は、丁度今あたりから始まったばかりという風に考える事が出来るかと」
「となると、これから半年、その連中がここにやってくるようになる、ということか」
「その通りです」
 分かっていただけましたか、と彼女は嬉しそうに顔をほころばせた。けど、それが理解出来たからといって喜ばしい出来事かというとそうではないだろう。僕はと言えば唐突な成り行きに、ただただ頭を抱えるばかりだった。
「……それで。僕はどうすればいいわけ?」
「何も。ただ黙認さえしていただければ」
「黙認」
「私たちは、目的さえ果たせばそのまま未来の元の時間へと帰っていくだけです。出来ればこの時代の世の中を不用意に騒がせる事なく、静かになすべきことを成し遂げたいだけなのです」
「そうはいうけど、もしかしたら僕はこの事を誰かに言いふらすかも知れないよ?」
「確かにその可能性はあるでしょう。でもあなたは、誰にもしゃべらないと思いますよ?」
「どうして」
「先ほども申し上げた通り、私よりも以前に何人かのエージェントがすでにこちら側との行き来をしている実績があります。もし荻川さんが私たちの事を誰かにしゃべって、それで何かしら世間が大騒ぎになっているのだとしたら、先行した者達はもしかしたら無事には帰って来られなかったかも知れません。しかし彼らは何のトラブルもなく、すんなりと未来に戻ってくることが出来た。つまりそれが露見しなかったということは、あなたは誰にもしゃべらなかったか、しゃべっても大した騒動にはならなかったか……冗談だと思われて、真に受けて貰えなかったのかも知れませんね」
「……なるほど」
 その話は確かに納得するに足るものだった。あくまでも彼女のいうことが真実だと仮定した上での話だけど、確かにこんな話を吹聴したところで、どうかしていると思われるのがオチだったろう。そもそも冬期休暇中で大学も休みだったし、知り合いは帰省したか、旅行にでも出かけたか、アルバイトで忙殺されているかのいずれかで、そんな真偽不明の話をどうしても報告しなければならないような相手もすぐには思いつかなかった。
「いずれにせよ、ご安心下さい。私も、これからすぐにでもこの部屋を出ていきますので」
「え、こんな時間に?」
「目的があってこの時代に来ているのです。あまり時間を無駄にするわけにはいきません。それにこれ以上ここに留まっても、ご迷惑なだけでしょうし」
 それは確かに迷惑は迷惑だったけど……ちらりと時計を見ると、まだ年をまたぐところまではいかないにしても、夜遅い時間には違いなかった。普通に考えて若い女性一人、真冬の深夜に出かけていこうというのも何かと物騒に思えたが……まあそれは彼女の都合で、僕とは関係ない。体よく厄介払い出来ると思えば、黙って送り出すのが得策と言えた。
 だが……カップに残ったココアを飲み干して、それでは、と会釈して席を立った彼女だったが、不意に足をもつれさせて、その場に膝を折ってしまった。
「あ……大丈夫?」
「ええ。ご心配なく――」
 彼女は気丈にもそう言ったが、立ち上がろうと畳についた腕ががくがくと震えていた。さっきまで涼しげな顔をしていたのに、今はその額に玉のような汗が浮かんでいた。はっきり言って、顔色も良くない。
 唐突に押しかけてきて妙な話をする、迷惑な相手……としか思っていなかったので今まで気づかなかったけど、そもそもこんな急に体調を崩すのも不自然な話で、きっと隣の部屋に姿を見せたときから調子が悪かったのだろう。それに全く気づかなかったのだから、僕もたいがい鈍感な人間といえた。
 でも、だからと言ってどう声をかけていいか分からなかった。彼女はと言えばそれでもどうにか立ち上がろうとして……結局、少しだけ横になりたい、とか細い声で告げたかと思うと、僕に何かしら返事をする余裕すら与えてはくれずに、畳の上にごろりと仰向けに転がったのだった。
 恐る恐る近づいてみる。少し躊躇しつつ額に手をやってみると、すごい熱だった。迷惑だとも言ってもいられず、僕は渋々ながら急いで布団を敷いて、そこに横になるように彼女を促した。彼女はしきりに恐縮しながら、おとなしく僕の誘導にしたがって身を横たえた。
「未来の人ってのは、身体が弱いのかな?」
「……ワームホールのせいですよ。私は体質的に、少し不調が出やすいみたいでして」
 あっさりとした説明だったが、時間旅行にもまったくリスクが無いわけでもない、という事なのだろう。本当にすいません、と彼女は力なく呟いたかと思うと、そのままスイッチが切れたみたいに、あっという間に眠り込んでしまった。
 あの、と恐る恐る声をかけてみたが、ちょっとやそっとのことで起きそうな気配はなかった。テレビをつけてみると、行く年来る年がたった今終わってしまったところだった。食べそびれていた年越しそば代わりのカップ麺を食べ、ぼんやりとテレビを見ているうちに、僕もいつの間にかこたつに潜りこんだまま眠ってしまった。
 はっと目をさますと、もう朝になっていた。布団の方をみるとまだ彼女はすやすやと眠っていた。そのまま僕も二度寝しようかと思ったけど、喉が渇いていたので起き上がって冷蔵庫にあったミネラルウォーターのボトルを口にした。
 考えてみればその日は元旦、新たに迎えた二〇一三年の始まるまさにその初日だった。とは言えおせち料理など用意してあるはずもなく……普通にコーヒーを入れ、トーストを焼いて、普段と代わり映えのしない朝食を準備した。
 物音で起こしてしまったのか、彼女もそのうち目を覚ました。熱はすっかり下がったようで、僕は彼女のためにもう一枚トーストを焼いた。インスタントのココアと一緒に、彼女は遠慮がちにトーストをかじった。
「すっかりご迷惑をおかけしたみたいで……そんなつもりじゃなかったのに、本当に申し訳ありません」
「まあ、ね……熱出して倒れている人を放り出すわけにもいかないし」
 彼女はあらためて礼の言葉を告げると、ここを出ていくといって立ち上がった。今度はふらつく様子もなかった。
「で、帰りはどうするの? またここに戻ってくるの?」
「いいえ。……昨日説明するのを忘れていましたけど、ワームホールというのは一方通行なんですよ。このアパートにあるものは向こうからこちら側にやって来るためのもので、逆方向へは行けないんです」
「え? それじゃ、元の時代にはどうやって帰るわけ……?」
「ご心配なく。昨日もお話しした通り、他のエージェントは無事に戻って来ています。こことは別の場所に、向こうへ戻るための別のワームホールがあるんですよ」
 そこに仲間がいるはずなので、私はこれからそこへ向かいます……そう言って彼女は、戸口に向かっていった。
「あ、そう言えば……まだ名前も聞いていなかった」
「笑いませんか?」
「いや、笑わない……とは思う」
 少し照れくさそうに、わざわざ念押しをした彼女に、僕は取り敢えずそう返事した。彼女はもじもじとしながら、小さな声でぽつりと答えた。
「ココア、です」
「ココア。……飲み物の、ココア?」
 彼女がもじもじとしている理由が何となく分かった。食べ物と同じ名前なんて、まるで小さいお友達向けの子供番組のキャラクターみたいだ。
 なるほど、と僕が勝手に納得しているところに、まるで言い訳でもするみたいに、彼女は――ココアは言った。
「私たちの時代には、存在しないんですよ」


 3

 彼女の話は鵜呑みにするにはあまりに突飛な、漫画じみた話だった。けれど一連の出来事がばたばたと経過していく中で、念入りに真偽を確かめるような余裕もなかったし、彼女が去った後となっては何かを確認するすべも僕には見当つかなかった。ワームホールなるものがあるという隣室に、後になって一人でこっそりと忍び込んでみたけれど、何か装置が置いてあるわけでもなかったし、具体的に肉眼で何かが観測出来るわけでも、何かしら気配を感じるわけでもなかった。
「ん……?」
 ただ一つそこで見つけたのは、しわだらけの古びた冬物のコートだった。こちら側の時間が寒い季節のさなかにあると予見して、彼女があらかじめ着て来るなり、所持してきたりしたのだろうか。暗がりの中、畳の上でのたうち回っているうちに脱げるかして、そのまま気づかずに置き去りにしてしまったらしかった。
 少なくともこの部屋の前の住人――いつそんなものがいたのかも見当つかなかったけど――の置き土産ということも無いだろう。慌ただしく過ぎていった一連のあれこれが、確かに本当にあった出来事なのだという事を示す、数少ない証拠の品だった。
 事実、彼女は自身で言った通りに、それから何日経ってもこのアパートに戻ってくる事はなかった。
 彼女が訪問してきたその事を除けば、まるで何も大きな出来事のない、平穏無事なお正月だった。初詣の大混雑をテレビの向こう側の映像としてぼんやりと眺めつつ、僕自身は正月行事らしい行事を何もこなさず、冬の休暇を実に無為に、ある意味贅沢に過ごしていた。
 なので、半ば大晦日の出来事も次第に忘れ行こうとしていた、そんな折だった。
 年が明けて丁度一週間。その日の晩御飯をどうしようかなどとぼんやりと考えていた夕方ごろの事だった。その日、大晦日の晩とまったく同じように、無人のはずの隣室から、どさりと大きな物音がふいに聞こえてきたのだった。
 隣の部屋の鍵については、別に不動産屋にも誰にも連絡はしていなかった。連絡すれば、どうしてそれに気付いたのか説明を求められるかも知れないし……それに本当に彼女に続けて誰かやってくるのだとしたら、その部屋の施錠がしっかりしていない方がやはり都合がいいに違いない。現に、謎めいた物音を確かめに行こうと思って行けるのは、入口の鍵が壊れているからこそだった。
 夕方ごろと言っても冬の事なので、辺りはもう真っ暗だった。暗がりの中に倒れていたのは、今度は自分よりも少し年かさの、やせた男性だった。僕が何か声をかけようとする前に、向こうからむくりと上体を起こし、僕の姿を見咎めて、少し警戒した様子で僕に問いかけてきた。
「……君は一体、何者だね?」
 それを聞きたいのはそもそも僕の方じゃなかったか。このアパートの住人は僕の方なわけだし、唐突に訪ねてきているのは相手の方だったわけだが。
 相手は例えていうなら学校の先生みたいな雰囲気の、物腰の穏やかな人物だった。ココアと名乗った彼女はワームホールを通った影響で随分と体調を崩していたけど、人によって体質的に向き不向きがあるのか、彼はべつだん何ともない様子だった。
 何者だ、と問われて少し気後れしたけど、一週間前にもワームホールを通ってここにやってきた人物がいる、という事を告げると、それだけで事情を納得した様子だった。
 念のため、僕らは例によってアパートの隣の部屋、つまり僕の部屋に移動する。ココアもそうだったけど、彼もまず最初に現在日時を尋ねてきた。
 さらに彼は、自分の所持品を念のため確かめて欲しいと僕に依頼してきた。身なりも持ち物もべつだん不自然な点は見当たらなかったけれど、よくよく確かめてみると製造年が今よりも未来の硬貨が数枚あって、それは僕の財布の中から同額のものと交換することにした。もらった分はしかるべき年が来てから使うか、記念にとっておくかするしかなかったけど、何にせよそれもまた彼が未来からやって来たのだという、ひとつの証左ではあった。
 そして彼が去っていったその後も、彼に続くように別の誰かしらが断続的に訪れてくるようになったのだった。それは一、二週間ほども間が空く事もあれば、三日と経たないうちに立て続けの事もあった。それは毎回別の人間ではあったが、三月も終わりというころ、例の学校の先生風の男がもう一度やってきて、僕は思わずあっと声をあげたものだった。
 ということは、彼らはやはり未来と今とを行き来しているのだ。
 二度目だからといってさほどうち解けた雰囲気になるわけではなかったが、思い切って立ち入った事を質問してみようと試みる気にはなった。彼らが来ている目的とか、いつの時代から来ているのか正確な年代とかは、やはり教えては貰えなかったけれど。
「まさか、過去を侵略しに来ているわけじゃないですよね……?」
「それは言えない。でもさすがに侵略っていうのは違うな」
 男は苦笑いしつつ答えた。最初にやってきたココアが、サイエンス・フィクション云々などという説明をしたせいか、彼らが過去にやってくる理由をあれこれ想像してみるもののついつい漫画じみたことを考えてしまうのは致し方なかっただろうか。僕のくだらない質問に律儀に教えてくれたのには、どちらかと言えば学術調査のようなものだ、とのことだった。
 五月の連休が過ぎる頃には、ここのアパートに誰かが来るというのはごくごく当たり前のことのようにすっかりなってしまっていた。僕自身、別に誰かから給料がもらえると言うわけでもないのに、あたかも現地スタッフの一員であるかのように当たり前の顔をして彼らを出迎えていた。
 面白いことに、人によっては一度目の訪問よりも二度目の訪問の方が、彼ら自身の時間旅行としては時系列的に先になるケースがある、ということだった。初対面のはずなのに以前にも会ったと言われ、その人が次に来る時には、相手にしてみたら初対面であったり……ということが何度かあったのだった。
 そういうことがあって、僕はひとつ思いついたことがあった。相手が向こうを出発した、その日付を尋ねてみるのだ。いつ、という話をすると確かに彼らは頑なに口をつぐんでしまうのだったが、年はいいので何月何日かだけ教えてくれ、というと、意外に皆多少は考え込みはするものの、最終的には教えてくれるのだった。
 それが今こちらで使われている、いわゆる西暦と同じこよみなのかどうかまではわからなかったが、少なくとも相対的な前後の比較ぐらいなら問題はなかった。名前は教えてはもらえないので勝手にあだ名をこっそりつけて、誰それが何月何日から来て、到着がこちらの日付で何日か、というふうに記録をつけていく。それが統計的にどのように役に立つというわけではなく、ただあとでじっと眺めては満足するだけのものに過ぎなかったけれど、未来からやって来るという彼らにそれを見せたりしても、感心したような反応を示してはくれるのだった。
 そしてその一覧を眺めてみれば、出発の日付と、到着の日付とが、確かにそれほどはっきりと一致はせず、見事なまでにばらばらである事が分かった。時間軸が完全に並行ではない、と言った最初の説明の通りといってしまえばそれまでだが、ワームホールが開通してる半年から一年という期間のうち、いつこちらに到着するのかは彼ら自身も見当がついていないのではなかっただろうか。
 もちろん、彼らが日付まで正確に把握した上でこの時代を訪問しているのかどうか、訊いたところで教えてくれるはずもなかった。やってきた者の中には二度以上の訪問になるものもいないわけでは無かったけれど、ココアと名乗った彼女がもう一度姿を見せる事はなかった。
 やがて夏が終わって秋に向かうにつれて、アパートにやってくる訪問者の数は目に見えて減っていった。夏より前には週に一人のペースだったものが、二週間に一人になっていき、やがて木立が葉を落とし始めるころにはいよいよ誰も来なくなってしまっていた。半年から一年、というのが当初聞かされた説明だったから、それに従えば隣室のワームホールは、そろそろ存在の期限を終えて、消滅しつつあると考えるのが自然であるように思われた。


 4

 そして、もう一度十二月がやってきた。
 僕は相変わらずぼろアパートの住人で在り続けていた。隣室に入居者はなく、不動産屋がドアの鍵を修理しに来るという事もなく、ただ不思議な訪問者たちがそこを頻繁に訪れていたという事実が過去の出来事になろうとしていた。
 正直僕も、もうそこには誰が来ることもないのだと思っていたのだ。
 だからその晩、隣室で久しぶりに物音が聞こえると、僕ははっとして部屋を飛び出して、隣室へと駆け込んでいった。
 果たして、久方ぶりの訪問者はいったいどんな人物だというのか……見ると、古びた畳の上に倒れ伏していたのは、一人の若い女性だった。横になったまま、苦しそうに呻き声を上げてはいたものの、立ち上がることも身を転がして仰向けになることも出来ずに、ただ突っ伏したまま延々と唸り続けていたのだった。
「……しっかり!」
 僕は慌てて駆け寄った。恐る恐る手を伸ばして、彼女を抱え起こそうとした。
 だが彼女は僕が近づいてくるのに気づいて、あからさまに警戒するように不意に身を起こして――それもうまく行かなくて、まるで畳の上を転がるようにして後ずさり、距離を置いて僕を睨みつけた。
 その顔を真正面から見据えて、僕はあっと声をあげた。
 間違いない……それは一年前、去年の大晦日にここに姿を見せたはずの彼女、つまりココアだったのだ。
「落ち着いて。君は無事二〇一三年に来ることが出来たんだよ。僕のこと、覚えていないの……?」
「にせん……じゅうさんねん?」
 彼女はまるで言葉を初めてしゃべるかのようにたどたどしい口調で、そう繰り返した。狼狽したように目を泳がせながら、半信半疑といった体で不審の眼差しを僕に投げかける。
 彼女は明らかに僕を警戒している。この部屋に現れた……ワームホールを通ってこちらの時代にやってきた訪問者たちが、僕と対面して見せる態度の多くが、程度の差こそあれこういう感じではあった。だがここまで極端に敵意の眼差しを向けられたのはこれが初めてだったかも知れない。
 その瞬間、僕は確信した。
 僕は彼女に再会した。でも多分、ここにいる彼女は僕に初めて会ったのだ。
 彼女は壁まで後ずさって、それ以上下がれないのになおも後ずさろうとする。でも気丈にも僕に相対していられたのはそこまでで、半身を起こした姿勢を支えていた両腕がふいにがくりと折れて、彼女はその身を畳の上にどさりと投げ出してしまった。
 抱え起こそうと手を伸ばしてみても、今度は拒絶どころかリアクションが何もなかった。気を失っていたのだ。そんな彼女をどうにか抱え起こして、僕は自分の部屋に戻った。一年前と同じように……彼女はすごい熱を出して、そのまま寝込んでしまった。
 しかも、去年は一晩ですっかり体調が戻っていたけど、今回は翌朝になってもしばらく熱に浮かされていた。ずっと眠ったまま、時折苦しそうに呻き声をあげながら、何か悪い夢にうなされているかのようにうわ言を繰り返すが、それが日本語では無くて――英語でもなく、それどころか耳触りがまるで聞いたこともないような未知の言葉で、それが聞こえてくるたびに僕は少しぎょっとさせられるのだった。
 そして再び夜になって、そこで僕はその日がクリスマスイブだということに気づいた。天気予報では寒波の到来を告げていて、夜には雪になるという話だった。
 空になった石油ストーブに灯油を補充している途中で、彼女は目を覚ました。まだ本調子を取り戻しているとは言えないのか、やつれたような、ぼんやりとしたような状態だった。自分が置かれている状況がまだ充分に把握出来ていないようだったが、倒れたところを僕に看病されたということは覚えているようだった。それを踏まえ、昨晩取り乱したことも含めて、彼女は静かに謝罪の言葉を吐いた。
 それでも僕らは完全に打ち解けたわけではなかった。無理もない、本来なら未来から来た彼女たちは、過去の時代にその痕跡を残さないように、課せられた任務なり何なりを粛々とこなさなければならないはずだったから、こうやって僕のような人間のところに厄介になっているという事実は不本意だっただろうし、想定外の事だっただろう。
 僕はそんな彼女に、一年前から今までのことを話して聞かせた。隣室のワームホールの件を僕が知っているということ。そのワームホールを使って、何人もの訪問者が時間旅行をしてこの時代にやってきたこと……例の出発・到着日付を記録したノートを実際に見せたりもした。そしてそういった色々を、最初にここにやってきて僕に教えてくれたのが、他ならぬ彼女自身だということも。
 彼女はまだ半信半疑な様子で、なかなか警戒も解けなかったけれど、僕がいれたインスタントのココアを口にして、おいしい、と呟いた。
「それはココアという飲み物だよ。……君と同じ名前」
「名前?」
「うん」
「そんな……私の名前……? いいえ、そんなはずは」
 彼女はしきりに首を横に振る。何が彼女を動揺させているのか、彼女はまるで独り言のように……自分に言い聞かせるように、滔々と語る。その不自然な口調が、彼女の動揺を示しているのかも知れなかった。
「私には名前なんかありません。あるとしたら荻川さん、あなたが勝手につけたのではありませんか。私は……私の認識番号はシーオーシー、ハイフンゼロエー。私を識別する呼称らしい呼称と言えば、それしか無いはずです」
 そう言いながら、彼女は自分の左腕の内側を無意識にさすりはじめた。視線を落とすと、そこには刺青のようにうっすらと、文字が刻まれているのが分かった。
 数字とアルファベットの羅列。COC-0A。それに続くバーコードのような模様と、アルファベットですらない文字の羅列も小さくあるのが分かった。まるで製造番号の刻印のようで、僕ははっとさせられた。
 そして僕は、彼女にいれたインスタントココアの瓶のラベルに目をやった。そこには丸っこい気の抜けたような書体で「COCOA」と記載されていた。僕がどこを見ているのか気づいた彼女は、手を伸ばしてその瓶を手にする。
「……確かに、同じですね」
 彼女はそういって微かに笑った。僕も釣られて笑ったけど、そこは果たして本当に笑うところだっただろうか。
 やがて彼女は再び布団に横になって、眠りについた。うなされている様子はなく、寝顔は穏やかだった。僕はそれを確かめてから、こたつに潜り込んで眠った。
 翌朝、僕はドアの閉まる音で目を覚ました。朝といっても時計が指し示しているのは午前五時、まだ外は薄暗い。部屋を見回してみたが、ココアの姿はなかった。
 僕は慌てて飛び起きて、部屋の外に飛び出す。やけに寒いのは当たり前で、アパートの前の路地はすっかり雪におおわれて真っ白になっていた。
 二階から降りる階段の上にもうっすらと雪が積もっていて、その上に真新しい足あとが残されていた。それを目で追いかけていっても階段の下に彼女の姿はない。僕は部屋に戻って、今度は部屋の窓から表の路地を見下ろすと、丁度すぐ真下を通り過ぎようとしていた、彼女の姿があった。
 彼女は厚手のシャツを着てはいたが、とてもこんな寒空を歩いて行くような格好ではなかった。
「ちょっと! 駄目だよ。まだ出歩いたりしちゃ」
「いいえ……荻川さんには大変お世話になりました。でもこれ以上、ここに長居をしているわけにはいかないのです。私には、この時代でやるべき事があるのだから」
 そう言った彼女の表情は、まるで何か悲痛な決意を告げているかのようで、僕ははっとした。
 今までの訪問者たちの中でそんな表情をみせた者は誰一人としていなかった。でもだからといって、彼らが皆物見遊山の観光客みたいな悠長な態度だったか、といえばそうではなかったはずだ。今までそれを敢えて外には出していなかっただけで、彼らは皆強い決意のもと、ある意味決死の覚悟で時間を旅して来たのではなかったのか。
「待って……とにかく、そこでちょっと待っていて」
 僕は部屋に戻ると、押入れのふすまを乱暴にあけた。そこにあったのは……一年前に彼女が来た時に、隣室に置き去りにされていた例の古びたコートだった。誰に返せばよいのか分からなくて、何となく押入れにしまいっぱなしになっていたのだった。
 僕はそれを掴んで、慌てて窓の外へと投げてよこした。彼女は慌てて手を伸ばして、それを受け止める。
「それ、着ていきなよ。その格好、こんな雪の中を歩くような格好じゃないよ」
「……でも」
「いいから」
 そう言われて、彼女はおずおずとそのコートを広げ、袖を通した。
「……ありがとう」
 彼女はそういって、笑みを浮かべた。
「この時代にやってきて、最初に出会ったのがあなたのような優しい人で、良かった」
「僕は――」
 僕は一瞬、何を言えばいいのか分からずに口ごもる。渡したコートだって元々は彼女のものだし、ワームホールの出現場所が隣室でもなければ、彼らと関わりを持とうとすらそももそも思わなかっただろう。
 僕は……取り敢えず深呼吸して、あらためて彼女に言葉を投げかけた。
「僕も、君らに会えて良かったよ。……この一年、けっこう楽しかった」
 おそらくもう二度と、彼女や他の未来からの人々と会うことはないだろう……その瞬間、僕はふいにそんな予感を覚えた。
 だからこれが、最後のお別れになるはずだった。
 それじゃあ、と僕らはお互いそこで手を振って別れを告げた。彼女はコートに身を包み、そのまま振り返らず、何処かへと立ち去っていった。
 それが彼女を見た最後だった。
 そして実際に、それを最後に隣室の訪問者はぱったりと途絶えてしまい、それ以上誰も現れることはなかった。
 いくら待ったところで、同じ場所にまたワームホールが開くわけでもなく、やがて以前から話があがっていた通り、アパートの取り壊しが正式に決まった。
 もしかしたらまた誰か未来から来る時のために、立ち退きを拒否してしばらく居座ってみようかとちらりと思ったのだけれど、そもそも例のワームホールがここにあったのもたまたまそのタイミングでそこにあったというだけの話だっただろう。彼らにその必要があればまた別にワームホールを開通させるだけで、それがここであるという保証は何もなかったし、その必要も無かったかも知れない。
 最初は建て直しという話だったのに、取り壊されたあとのアパートはそれからしばらくはずっと更地のまま放置されていて、いつの間にか月極の駐車場になってしまっていた。僕の引越し先はすぐ近所だったのでその前を通りがかることもたびたびあったけれど、そのたびに未来からやってきたという彼らの事を、ついつい思い出さずにはいられないのだった。
 彼らは今、どうしているのだろう……そんな風に考えた後で、彼らのいずれもが、実際はまだ生まれてもいない、この世界に存在すらしていないのだ、という事に気づいて一人苦笑いする。
 それがいい未来にせよ、悪い未来にせよ、いずれその未来はちゃんとやってくるわけだし、その未来をよりよいものにするために、彼らは彼らなりにこの時代でやるべき事をやっていたはずだった。
 そもそも、同じ時代に接続しているワームホールが常に一つきりだとも限らないではないか。入り口と出口、行きと帰りの方向が決まっているだけで、もしかしたらあのアパート以外の場所からも、もっと大勢の未来人が続々とこの時代にやってきていたのかも知れなかった。
 そう考えると、もしかしたらこの街のどこかで、そんな彼らの誰かとばったりと出くわす事もあるのかも知れなかった。いや、今でもお互い知らないままにすれ違ったりもしているのかもしれない。
 そんな彼らが、この時代にわざわざ来ていた目的はついに僕には分からなかったけれど……それがこの時代に生きる僕らや、彼ら自身の未来を、よりよいものへと導くためになっているのであればいいな、と僕はぶらぶらと歩きながら、漠然とそんな風に考えたりするのだった。
 もちろん……それがどんな未来であるのかまでは、僕には分からなかったけど。
 
 
 
 
(初出:2012.12.31)

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