霧の魔物

 ――霧の日には、魔物が出て旅人を襲うという。
 ここしばらく、街道を行き交う旅人の間でそんな噂が口に上っているようで、それもあってかこの近辺はただでさえ断崖沿いの難所なのに、誰も寄り付かなくなって久しかった。
 そんな中、久々に通りがかった二人組の旅人の姿があった。
「霧が出て来ましたね。父上」
「用心しろ。例の化け物が来るぞ」
 年老いた、いかにも老練そうな剣士と、まだ年端もゆかぬ利発そうな男の子。みたところ、親子であるようだった。
 私は驚くやら、呆れるやら……もしかして魔物退治でも来たつもりなのだろうか。ちょっと前にも、勇者だなどと名乗る男が、その名に似つかわしくない非業の最期を遂げたばかりだというのに。
 そんな矢先、霧の中で『奴』の咆哮が早速響き渡った。
 父親が用心深く剣を抜き、そろりと忍び足でゆっくりと前に進んでいく。
 だが『奴』もまた、霧に姿を隠し背後から音もなく接近する。
 一瞬のことで、悲鳴は無かった。老いた剣士は一撃で頭蓋を噛み砕かれたかと思うと、その死体はあっという間に崖下に滑り落ちていく。
 がらがらと岩場を何かが滑っていく物音に、連れの少年は何事かとあたりをきょろきょろと見回すが、霧は自分の手を伸ばした先ですらはっきりと見て取ることが出来ないくらいに濃く立ち込めていた。
「父上、どこです?」
 不安げに名を呼ぶ少年の背後に、『奴』が忍び寄っていく。
 それ以上黙って見ていられなかった。私は素早く少年の側に近づいて、その手を引いた。
「!?」
 少年の戸惑いをよそにおいて、私はとにかく無言で走った。向こうも足音をとにかく忍ばせていたが、かすかに砂を噛むような音を頼りに、私は『奴』がすぐ目の前まで追いすがってきていることを知った。
 自分を導くのが父親ではない事に、少年はどれほどもしないうちにすぐに気づいたようだった。
「何者だ! 手を放せ!」
「奴がすぐそこまで来ているのよ? いいから私について来なさい!」
「騙されるものか!」
 少年は私の手を振りほどき、剣を抜いた。霧の中に私の影は見えていただろう。間合いを計って相対するも、そのすぐ背後で耳をつんざくような咆哮が響き渡り、少年は慌ててそちらを振り返った。
 恐ろしげな叫び声に思わず二歩、三歩と後ずさった、次の瞬間。
「うわっ」
 元より難所として知られる断崖絶壁だ。思いがけず足を踏み外した少年の姿が、みるみるうちに崖下に転がり落ちていく。
 手を伸ばしたが間に合わなかった。あっという間に遠ざかっていく、幼い悲鳴。
 呆気に取られる私のすぐ隣に、いつしか『奴』がいた。
 生々しい獣の気配を横目に、私はただただ、ため息をついた。
「……あのね。一体どういうつもり?」
「ググ?」
「久々のご馳走なのに、両方とも崖下に落っことすなんて」
 単純な話だ。奴が追い、私が助ける。大抵の旅人はそれであっさりと油断する。
 なのに……奴の不手際のせいで、いつも失敗だ。
「ググ……スマナイ」
「第一、あんたが見境なしに暴れまわるから、噂になって誰も寄りつかないのよ。少しは反省しなさい」
「オマエコソ、イツモエモノヒトリジメ」
「この間の勇者はあんたが一人で食べたじゃない!」
 狩りは失敗だ。また当分は、空腹の日々が続きそうだった。

(初出:2002.1.30)

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