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#うちには猫がいた。

#うちには猫がいた
 
 うちには猫がいた。名前はマリリン。昭和生まれの私がまだ一歳になるより前にうちに来た、私の魂の片割れ。
 それより前居た猫が死んでしまい、世話をしていた母は「もう生き物は飼わない」と言っていた所、自宅の一階で自営業をしていた父の客が「貰ってよ」と連れてきたのがマリリンだった。
 マリリンはシャムネコを長毛にした種類のヒマラヤンという種類の猫のメスで、力加減の分からない私から逃げることなくいつもそばにいた。
 近所に子供の少なかった私の遊び相手だった。母親は外に出すつもりがなかったのに、私が外に出しまっていて、その日も私はマリリンを探しに外に行った。
 とはいえ、いつもは私が呼べばどこにいてもすぐ帰ってくるのだ。マリリンも共に育った私を、きっと手のかかる姉妹だと思ってくれていたのかもしれない。
 その日は呼んでも帰ってこなかった。そういうときもたまにあったので、私は猫の缶詰をスプーンでカンカン叩きながら「マリリ~ン」と近くを探した。すぐにマリリンの声が聞こえてくる。なのに、帰ってこない。おかしいな、と小さな私は声の出所を探した。家のはす向かいの駐車場に泊っている車の下で、マリリンは寝そべっていた。そのまま大きな声で鳴いていた。私を見つけると鳴くのをやめたが、一向にうごかない。
「帰るよ!」
 とひっぱっても起き上がらない。おかしい、と思った。子供ながらに、何かおかしいと。三歳の私は、五キロほどあった猫を一生懸命抱き上げて
「おかあさん! おかあさん! マリリンがへん!」
 と家に連れ帰ろうと一生懸命引きずりながらあるくものの、マリリンは痛そうに嫌な声で叫ぶように鳴いた。
 通りかかった父の部下たちは微笑ましく見ているだけだった。助けて、と思ったのを覚えている。
 階段を上りきれず、踊り場にマリリンを置いてふらふらの足取りで母を呼びに行くと、洗濯か何かしていてすぐに来てくれない。
「へんなの! マリリンがへん!」
 三歳の子どもだ。何がどうおかしいのか説明できない。とにかく力いっぱいお母さんをひっぱって、やれやれと呆れる母を横たわるマリリンの下に連れて行った。
 
 病院に行って、怯えるマリリンを撫でてあげたことは覚えている。マリリンはしばらく入院して帰ってこなかった。
 少し大きくなってから母に聞いた話だと、あの時マリリンは骨盤から尻尾の先までの骨が粉々になってしまっていて、トラックか何かに轢かれたのだろうということだった。
 動物病院の医師からは「助かっても二度と歩けないし、自分でおしっこもできない、痛みを持ったままになるかもしれない。安楽死を考えたほうが良い」と薦められたそうだ。
 母には命の選択をすることはできず、「できる限りのことはして」と頼み込み手術をしてもらった。
 
 マリリンが帰ってきてからの事はあまり覚えていない。もしかしたら私が連れまわさないようにカゴか何かに閉じ込められていたのかもしれない。
 けれどマリリンはその後歩いていたし、走っていたし、おしっこもウンチも自分でできるようになっていた。奇跡の猫だった。
 
 マリリンは避妊手術を受けていなかった。当時からも飼い猫はしたほうが良いと言われていたらしいが、子供を産んだばかりの母が同情してしまって踏ん切りがつかなかったそうだ。そのまま事故にあった後、四歳の時、歩けるようになったマリリンは妊娠した。
 マリリンのおなかがパンパンになり、「子猫がうまれるんだ」ということは漠然とわかっていた。
 母がトイレに猫のカゴを入れて子機で電話をかけている。
「でてこないんです! 足が見えてる!」「引っ張れない! そんなの無理、できない!」
 と言っていたのを聞いて、私は母の背中を思いきり引っ張り「わたしが引っ張り出す!」と震えた。
 だが四歳の子の話など母は聞き入れてくれず、そのまま車で二〇分かかる動物病院に苦しむマリリンを連れて行ったが、楽しみにしていた子猫たちは、三匹、まっくろけでお胸のところが少し白くて、ちいさな尻尾があってみんな冷たく、動かなかった。
 
 ビデオで一〇一わんちゃんを見たばかりだった私は、動かない真っ黒けの子猫たちを、一生懸命さすった「こうしたら、もしかしたらいきかえるかもしれないでしょ」「がんばれ、がんばれ」
 小さな私の努力むなしく、子猫たちは病院で弔ってもらい、マリリンと共に自宅に帰った。
 マリリンはうろうろと、その日は亡くなった子猫を探していたと思う。
 
 今思えば、なぜ母はその時一緒に避妊手術をしてもらわなかったのか。マリリンは、半年後の夏、母の帰省先の祖母の家で、野良猫に孕まされた。
 六匹全員、そっくりな縞々の長毛の子猫が生まれた。マリリンが産気づく前にあらかじめ病院の先生に相談し、帝王切開で生ませて、マリリンはやっとその時避妊手術を受けた。
 六匹の内小さな一匹はまもなく亡くなり、その時中学生だった二番目の姉と自転車にのれるようになったばかりの五歳の私で大きな公園の裏に行き、桜の木の下に埋めた。
 
 二か月と少しして、子猫たちが離乳食を食べるようになるとそれぞれが近所に里子に出されていった。一匹だけ「平里」と名付けられたメスが家にのこったが、子猫を迎えに来るお客さんが来る度、マリリンを抱いて一緒に不機嫌になっていたのを思い出す。
 一週間後に「貰った子猫が飲まず食わずのまま棚の下から出てこない」と連絡を受けた父が様子を見に行くと、父の声を聴いた子猫はすぐに棚の下から駆け出してきて父にしがみついてきたので、その子はそのままうちの子になった。
 名前は「銀次」になった。大人になって八キロを超える大きな猫になっても静かで臆病な猫だった。
 子猫たちは一歳になる前に避妊手術を受けた。三匹の猫と私はいつも一緒に遊んでいた。
 
 私が家に帰るとまず平里が元気よくおでこをゴツンゴツンぶつけてすりよってきて、次にマリリンが喉を掻いてと寄って来て、銀次は少し離れた所で座って見てるので「ぎんちゃんおいで」というと遠慮がちに撫でられに来る。
 朝は私がランドセルを背負って小学校の通学班の集合場所に向かうと、マリリンは必ず後ろから付いて来て、途中で私をおいぬかして隣の家の広い庭に曲がって入っていく。そんな毎日だった。
 ごくたまにマリリンは学校までついて来ようとするので、「帰りな!」といって帰すこともあったし、帰らない時は抱えて走って家まで連れてかえって、走って小学校に向かうこともあった。
 なんなら一回だけ小学校まで連れて行って職員室の裏に、もらった紐でつないでおいたこともある。(母が車で迎えに来たと思う)
 マリリンと私は、それだけ毎日一緒だった。
 それなのに私は、やれ犬が飼いたいだの、猫は飽きただの、ひどい言いようだった気がする。
 猫たちは近く(と言っても結構遠いんだが)の子供たちにも人気で、私が家にいない時も年上の男の子は頻繁にうちに来ては勝手に猫を撫でていたらしい。
 
 幸せだった。
 親に何かしら怒られて私がめそめそ泣いていると、マリリンや平里は必ず私のそばに来てだまって撫でさせてくれていた。
 その時も私は勝手に猫を外に散歩に出していた。平里とマリリンはぴゅっと外に出てしばらく帰ってこなかったし、
 銀次はビビりだったから、私がヒモをつけないと散歩に行かず、外に出ても家の裏の日当たりのいい道路でゴロンゴロンと砂まみれになりながら転がるのがすきだった。
 
 近所に野球の練習に来ている少年たちは、なつっこい平里を必ず撫でたり抱っこしたりしてから帰っていた。そしてある日、平里は帰ってこなかった。
 八月の事だ。小学生だった私は張り紙を作り、父の会社で何枚もコピーして近所の電柱にはりつけた。セロテープで貼ろうとしてくっつかないのを見かねた近所の人がガムテープをくれた。
 だがその翌日から遠方にある母の実家に、家族で五日ほど帰省することになっていて、私は「平里がいないのに」と最後まで渋っていた。五日間ずっと心配でたまらず、車で帰宅してもすぐ家に入らずに「平里! ひら!」と近所を叫んでまわった。
 すると遠くから「にゃ~~!」と大きな声で平里が飛び出してきて、抱き上げるとすぐわかるほど痩せていた。
 「お母さん平里かえってきた! すごい痩せてる!」と泣いて喜び、帰ってきたのに家族がいなくてさぞ心細かったことを考え「やっぱり残って待ってればよかったよ、ごめんねえ」と泣いて謝った。
 
 穏やかな日々。平里が疥癬にかかって薬液付けにされたり、一緒にいた銀次もうつってるかもと薬液付けにされたらビビって漏らしたり
 猫を洗った日にあんまり怯える銀次に私が「ビビリをなおしてやる!」と修行と称して衣装ケースにつっこんだまま数時間忘れ、結局それでおしっこまみれになってもう一回洗われることになったり、「うちにも猫いるよ」という近所に引っ越してきた子の家に銀次を「友達にする」と連れていき、知らない猫に怯えた銀次はしっこを漏らし、助けて! と私にとびつき、伸びていた爪は私のおでこに刺さり、流血した。その翌日「爪のびてるから」と血の通う根元から切ってしまい血まみれにしてしまった。とにかく乱暴な子供でな私の、良くも悪くもおもちゃだったし、家族だった。
 
 「私の成人式の振袖着る時に肩に乗ってエリマキのフリしててよ」と「ギネスだと三二まで生きたんだって」と「三〇超えるとネコマタになれるんだって」と。マリリンは、一七歳で旅だった。悪性腫瘍だった。毎日少しずつ歩けなくなっていくマリリンを見ていた。
 起き上がれなくなった日、高校を休もうとしたが母に急かされて登校し、授業が終わると先生に「猫が死にそうだから帰してほしい」と言ったが「掃除をさぼるための口実だろ?」と言われたのを覚えている。泣きながら「嘘じゃないから!」と訴えて帰る。
 もしかしたら、立ち上がって、復活してるかもしれないし。
 
 出かけた時と寸分たがわぬ位置で、じっと眠るマリリン。
 浅い呼吸。まだ、生きてる。きっともう意識のない半分開いた目、骨が目立つようになった動かないからだ、ボソボソの毛並み。
 好きだった耳の裏を掻いてやると、反応する。まだ意識があるんだ。
 「ありがとね、たのしかったよ、だいすきだよ、また会いに来て、泣いてごめんね、だいすき、死なないで、一緒にいて、だいすきだよ」
 母が、昏睡状態だった祖父の死に水をとってしまったと言っていたのを思い出す。
 冷蔵庫から牛乳をだしてきて、指につけてなめさせる。
 でもやっぱり死んでしまうのが嫌で、マリリンの呼吸が止まるたび、臭いにおいのするマリリンの鼻と口を、丸ごと私の口にくわえて人工呼吸をして、まだ死なないで、と泣き縋った。
 声の出ない鳴き声を何度も出そうとする。
 「聞こえてるよ、ここにいるよ、だいじょうぶだよ、もうがんばらないで、ごめんね、苦しいよね。もうだいじょうぶだから、ありがとう、おやすみ」
 心臓が止まるそのときまで、ずっと撫でながら抱きしめて話しかけた。
 骨の浮き出た胸にぎゅっと耳を近づけて、ゆっくりゆっくりになっていく心音を聞いていた。
 音がしなくなって、撫でても反応が返ってこなくなって、大きな声を出して泣いた。一階の会社で事務仕事をしていた母に電話を掛ける。
 「マリリン、しんだよ」
 
 平里も銀次も、死んだことが分からないのか、抱いて連れて行っても、匂いを少し嗅いで、離れてしまった。
 
 うちには猫がいた。五月の事だった。
 
 一週間学校を休んだ。
 火葬場でもずっと泣いていた。
 小さな骨壺に入ったマリリンはもう、マリリンとは思えなかった。
 
 呼んでも来ない。やさしいあの子。また会いたいよ。何度でも思い出す。私の魂の片割れ。

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