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「伝えたい」その前に 自分の「橋」を見つめる

「伝える」をテーマにマガジンを書いていこうと思います。私の自己紹介は別記事で書きます。

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ネクタイって何だろう?

あるときラジオで、リスナーが送ってきた「ネクタイは、何のためにするのか?」という疑問に、男性アナウンサーと番組MCの伊集院光さんが答えました。
「ネクタイをすると引き締まる(仕事するぞという気持ちになる)」と言う、20代とおぼしき男性アナウンサー。
それに対し、伊集院光さんは「俺はね、退職間際の親父を思い出すんだよ」と話し始めました。彼の父は、退職近くになって、希望でない部署に異動になったらしく、最後は退職をめがけて義務感を強めた通勤をしていたとのこと。そのとき、「なんでネクタイしているんだろう」と思っているように見えたと語っていました。

ネクタイ自体の「機能性」はあるのでしょうか? シャツのボタンがはずれにくいとか? いくつか可能性を、考えてみましたが見当たりません。

ネクタイは、「きちんと仕事をしています」という記号みたいなもの。20代の男性アナにとって、そして大部分のネクタイをして仕事をしている人にとってはそうです。私に取ってもそうです。

でも、退職間際の伊集院光さんの父親が考えるネクタイは、「記号」だけではないと思いました。そこには、(何十年も続けてきた)仕事に対するなんらかの「思い」が宿る場所であり、だからこそ、仕事での不遇が、それまでは何も感慨のなかった(習慣として締めるのが当然のルーティンだった)ネクタイの「存在」をあらためて知らしめたのだと思います。

機能として、記号として。そして、なんらかの思いを向ける対象として。
すべてのモノやコトが、いろんな要素をもっています。
あたりまえのことですが、身の回りのことをイチから見直すって、大事だなと思うのです。

もし、あなたに伝えたいことがあるなら、自分の思いを向ける対象(書くテーマ)にかかる橋を見つめることから始めてみるといいです。

モノやコトと自分にかかる橋

イチから見直すときに、私がやっているのは、自分から対象へ(あるいは、その対象から自分へ)かかっている「橋」を意識することです。

その橋には、いろんな種類があります。機能性の橋。記号としての橋。そして、自分の思いという橋。思いは愛着である場合も、憎悪である場合もあります。

機能としての対象は、わかりやすい。何かができたり、何かを防いだりしてくれます。自分にとっても他人にとっても、機能性という橋は判断がしやすいです。そのわかりやすさは、合理的に判断したいときに有効です。そして、わかりやすいがゆえに、その橋だけしかないと思ってしまうこともしばしば。

そして、わかりやすいがゆえに「モノやコト自体に機能がある」と考えがちですが、機能性も一つの橋です。自分から見れば使いやすいけれど、ほかの人にとっては使いにくいものがあるように、そのモノやコトの橋は、一種類だけ存在しているわけではないのです。
人がいれば機能性の橋もその数だけあります。

さらに、あらゆるモノやコトには、機能性以外の橋もかかっています。


記号の橋は、モノやコト自体を見つめていては、見えてきません。そして、自分だけでなく、他の人も巻き込みます。というか、ほかの人たちの考えに巻き込まれます。「ネクタイは仕事をしている人が締めている」という認識は、私がいる「世間」ではたくさんもっている人がいます。私自身は、ネクタイをしませんし、ネクタイをしている人がほとんどいない職場ばかりで過ごしてきました。それでも、ネクタイを締めた人物のアイコンがあったら、「会社員」や「仕事中」などをイメージしてしまいます。

だいたい記号の橋では「◯◯は、△△であるべき」とか、「××は、●●する人が多い」とか、私ではない誰かが判断している基準が土台になっています。
便利なときもあります。ピクトグラムなどアイコン化すれば、「だれでもわかる」という利点を得られます。複雑なモノやコトの要素を簡略化できるので、すぐにその対象を理解できるという利点もあります。たくさんの人とコミュニティをともにするときには、有効なのではないかと思います。

でも、自分で決めた(私自身が望んでかけた)橋ではありません。


霧の向こうにかかっている橋がある

モノやコトにかかっている「自分の思い」という橋。私が、この橋を出会ったのは、社会人になってからでした。それまでは、誰かのかけた橋を移植ばかりしていたことに気がつきました。自分で橋をかけていいんだということも知らなかったし、かけ方も知りませんでした。

でも、「かけ方」はありませんでした。実は、最初からかけてあった橋を発見しただけでした。
思いの橋は、愛着や好意もあるし、執着や憎悪もあります。そして、愛着に見せかけた執着があったり、好意に見せかけた憎悪もあります。その構造はなんと複雑で、エッシャーの絵に出てくる建造物のような摩訶不思議な造形になっている場合もあります。

なので、機能性の橋と記号の橋にくらべて、それが橋であると気づくのはとても大変です。複雑な構造であればあるほど。さらに、なぜかキレイに見える橋はすぐに見つかるのに、複雑な橋や、ちょっと変わった形の橋は霧に隠れて見えにくいのです。霧に奥に行くのは、なんだかつらいし、波も高くて遭難しそうです。なので、仲間の助けが必要でした。自分一人ではなかなか行き着きません。

自分の奇妙な橋や気味の悪い橋を見つけたら、恐ろしいことが起こるのかもと思っていたら、そんなことはありませんでした。逆にソワソワがなくなりました。さらに、見回してみると、さまざまなモノやコトにかかっているいろんな形の橋が見えてきました。


橋が見えると何が起こる?

モノやコトと自分にかかる橋があること。一つのモノやコトにいくつも橋がかかっていること。その橋をじっと見つめること。本当は、誰かがかけたのかもしれないと考えてみること。さらには、それが他の人すべてに起こっていること。

これらを意識することで、他人との無駄な争いが減るのかなと思っています。
他人の橋を思いをめぐらすこともできる。
一方で、無駄に他人を優先することもしなくてすむ。だって、その人の橋は私には渡れないのです。その人しか渡れないから、「ああ、そんな橋があるんですね」と言うだけです。

もちろん、全然、橋を見せてくれない人も、「橋なんかありません!」と言い張っている人も、「機能性の橋がいちばん!」と自慢げに言う人も、「この(自分の)橋がすべての人にもかかっているはずです!」と誰かに詰め寄る人もいます。
それでも、言えるのは「ああ、そんな橋があるんですね」だけです。それすら、言わないときもありますが。

誰かが、「あなたも私の橋で渡ってよ。あるいは似た橋じゃなきゃ、同じ気持ちになれないでしょ」と言うなら、袂を分かつしかないです。

私は自分の橋を行き来しながら、ときには人の橋を愛でたりしてます。今はそんな体験ができていることが多いです。楽しいし、モノやコトがシンプルに見えます。

とはいえ、うっかり自分と同じような橋を、自分の娘にかけさせそうになったりします。自分の橋がキレイで気に入っているので、同じ橋にしたほうがいいと他人に押し付けそうにもなります。でも、自分や他人の橋がどんな状態なのかに目を向けると、深刻な状態の手前で引き返せることもできます。

私の橋とあの人の橋。かかっているものが違うと思うと、大抵のことは「まあ、いいか」となるので、心の安定にもいいです。

Photo by Tim Swaan on Unsplash

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