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古代史随想(4)

 いらしてくださって、ありがとうございます。

 古代史のなかで一番気になっている蘇我そが氏ですが、先日、猿投山という地名の伝承を知り、ひさしぶりに蘇我氏のことを考えてみました。

 乙巳いつしの変で、中大兄なかのおおえ皇子(のちの天智天皇)と鎌足らによって誅殺された蘇我入鹿いるか
 その父・蝦夷えみしは息子の死を知って、居館に火をかけ自裁したといいます。
 蝦夷の父の名は馬子うまこ、その父は稲目いなめと伝わっています。

 稲目 馬子 蝦夷 入鹿 

 四代つづけて妙な名前だと以前から思っていて、蝦夷は「東国のまつろわぬ民」とおなじ名称でもあり、馬に蛮族、そして鹿となると、蘇我氏を貶めたい者たちが「蔑称としての獣シリーズ」として面白がって名付けたかと邪推したくもなり、それでいけば稲目という名も、「猪目」が転訛したものではないかと想像するのです。

 さて、猿投山ですが、「さなげやま」と読むそうです。
 愛知県豊田市にある山で、猿投神社というお社があり、ヤマトタケルの双子の兄君である大碓命オオウスノミコトを主祭神に、景行天皇と垂仁天皇とが配祀されていますが、古くは猿田彦や吉備津彦、もともとは山の神が祀られていたとのこと。

 この「猿投」という名の由来は、景行天皇が伊勢への船旅の途上、飼っていた猿があまりにいたずらが過ぎ、海に「猿を投げ」捨ててしまい。
 猿は自力で岸へたどり着いたようで、その猿が住み着いた山ゆえ猿投山と呼ぶようになったといいますが──。

 伊勢と猿といえば、ニニギノミコトの天孫降臨の折、神々の道案内をしたとされる猿田彦さるたひこが、役目を果たしたのち、伊勢へ行き、漁をしていたときに貝に手を挟まれ溺れ死んだのが、「伊勢の阿邪訶あざかの海」なのでした。

 また、蝦夷という名の表記は日本書紀によるもので、上宮聖徳法王帝説では毛人えみしという表記となっています。
 蝦夷・毛人ともに語源には諸説ありますが、単純に字面の「毛人」から想像するのは体毛が濃い人の姿。これは猿の暗喩なのではと考えてみました。

 そうなると次は蝦夷の父・馬子とのかかわりが出てきました。
 この馬子と同時代には、聖徳太子として知られる厩戸うまやど皇子がおられます。
 厩戸の御名は、母君が厩の前を通りかかったときに産気づき、皇子が誕生されたことにちなむと言われますが、これは聖徳太子を世界中のどの聖人よりも優れた御方にするために、日本書紀の執筆者(考案者)が、イエスキリストの誕生を模したと考えています(釈迦の誕生エピソードを真似たと思われる記述もあり)。

 その時代に本当に日本に景教が入ってきていたのか。
 半島の新羅にはそれ以前にローマ文化が到達していた痕跡があり、船はとうに発明され、海はつながり、大陸を横断してくる胡族もあったことを思えば、そして古事記における神話のあちこちにギリシア神話の影響もみられる以上、何者かがそうした遠い異国の神話伝承を古代日本に持ち込んでいたことは間違いないと、個人的に思っています。
 
 この馬子、厩戸皇子との名前の相似から、二人が同一人物であるという説もありますが、私は、馬子はむしろ息子とされる蝦夷と同一人物ではないかとも考えています。

 その根拠は「厩猿うまやざる」という信仰です。
 馬が暮らす厩に猿の頭蓋骨などを祀り、火災や病から馬が守られるよう祈るというもので、五行思想(馬の火を猿の水で制す)がもとになっているようですが、奈良の都でも厩には猿が飼われていたといいます。
 馬と猿とは強くつながっている、そこから馬と猿を一対と考えれば、馬子と蝦夷(毛人・猿)とは同一人物と想定できないだろうか、と。

 同一人物ではないにしても、馬の息子が猿、というイメージのつながりのヒントにはなるのかな、と。

 また、話がかなり飛躍しますが、出雲の国譲りの物語は、実は「大和の国譲り」(八俣ならぬヤマトノオロチの物語など)であり、それは「蘇我氏の国譲りでもある」と想像しています。

 出雲の国譲りでは、これまで統治してきたクニをいきなり譲り渡せと脅されて、オオクニヌシは息子たちに判断をゆだねます。
 このとき、息子のコトシロヌシ(釣りに行っていた)は、国譲りに従う意思を示したのち「入水した」ととれる記述がなされています(もうひとりの息子、タケミナカタについては後日記事をあらためます)。

 このオオクニヌシこそ蘇我馬子であり、コトシロヌシが蘇我蝦夷では、と想像する……その根拠が、蝦夷という名なのです。

 蝦夷という言葉の読みは、エミシ、エゾのほかに「エビス」というものもありまして。
 エビスといえば恵比寿さま。魚と釣り竿を持った福々しい笑顔で描かれるこの神は、商売繁盛、大漁をもたらすとして信仰されています。
 一方、漁業者の間ではエビスといえば、水死体をも意味するのです。
 クジラやイルカなどの海獣のほかに、水難者をもエビスと呼ぶ。そしてこのエビスは、古来から「海からより来たるもの」として、幸を呼ぶものとされ手厚く祀られもしたといいます。
 遭難した船が浜辺に寄り来れば、その財物は漁村にとってまたとない恵みともなるがゆえのエビスを神とも祀り、やがてそれは福の神の姿に変遷したのだと。

 蘇我蝦夷という名は、エミシ→エビス→水死者→コトシロヌシを想起させる。また、毛人という別の表記は猿を想起させ、それもまた、伊勢の海で溺れ死んだ猿田彦を暗喩しているのではないか(ではこの猿田彦とは何者かについてはまた記事をあらためますが、やはりこれも蘇我氏を暗示しているはずだと想像しています)。

 さらには蔑称としての名前と考えると、馬子という名は、古く中国では便器を意味するといいます。虎子が馬子に変化した、と。
 
 日本書紀には、特定の人々・血統に対してのあからさまな蔑称なり、貶めることを目的としたとしか思えない、ひどい記述が随所に見受けられ、そのほとんどが、蘇我氏にかかわるものではないかと想像しています。
 「これが日本の歴史書です」と唐に差し出したはずの日本書紀。
 その記述のなかに、馬子などという名をつけられた人物がいて、その男は崇峻天皇を弑逆し、物部氏を滅し、葛城の地を推古女帝に要求したりと横暴を極めた……こんなくだりを読んだかの国の人々は、「なるほどこれは○ソ野郎だな」と思ったかどうか。
 
 などとつらつら書いてまいりましたが、そうなると気になるのは稲目と入鹿という名前。
 稲目が猪目なら、ヤマトタケルを死においやった山の神である猪のほかに、なにか伝承なり結びつくものはあるのか。
 入鹿は、応神天皇の大和帰還後に訪ねたツヌガでのイルカの大量死のほかに、伝承はないのか。
 日本書紀の執筆者(考案者)は、ワールドワイドな神話伝承への知識があったようで、もしかしたら猪や入鹿について、中国や西域の物語になにかヒントがあるのかもしれず。
 いま、それらをすこしずつ探しているところなのでした。

 今回もまとまりなく妄想を書き連ねた記事となりましたが、この古代史随想は議論のためではなく、シロウトの古代史好きが小説の素材としての考察をつづったものです。そのようにご理解のうえ読み流していただけましたなら幸いです。
 また、コメント欄にて、記事にかぶせた政治・特定の人や団体などについてのご意見などはご遠慮くださいますようお願いいたしますね。

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 最後までお読みくださり、ありがとうございます。

 師走ももう半ば。
 みなさまもくれぐれもご無理なさらず、あたたかくお過ごしになれますように(´ー`)ノ

 

 

 

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