[Short Story] 二十歳のボールペン
“Mei Ueno”
テーブルの上のボールペンに印字されたその文字は、オレの名前ではない。
最初に就職した会社の入社式で新入社員全員に名前入りのボールペンが渡されるはずだったのだが、担当者が誤って他人のものと取り違えたのだ。
* * *
オレは地方の男子校を卒業してすぐ、都内の会社に入社した。
キラキラした都会で、眩い女と付き合えるとぼんやり理想を描いていたが、具体的なことはなにも考えていなかった。
入社式でもらったボールペンには、それぞれの名前が印字されて配られた。
オレに渡されたそれには、“Takeru Takahashi” の名前ではなく、代わりにどう見ても女の名前が印字されていた。
入社式に参加している17人の中に女性は一人しかいない。
彼女の方を見ると、目が合った。
オレが話しかける前に彼女の視線が逸れ、社長のスピーチが始まった。
オレは彼女を盗み見た。
スラっと長い脚に膝上のタイトスカートはピッタリ腿に張り付き、少しオーバーサイズだがキッチリとジャケットを着こなしていた。
同じ支所に配属された笹中は都会育ちで、女にも慣れていた。
せっかく同じ支所になった同期なのだからと、屈託なく話しかけていたその女の名前は上野芽李といった。
上野は1歳年上で中途採用の元銀行員だと、笹中が聞き出した。
モデル風のクールな美人といった感じだ。
男ばかりの職場にあって、独身男性全員が注目するのも無理はない。
彼女は常に男に囲まれていたし、入社当時のオレにとっては近づきがたく、遠い存在だと思っていた。
「なあ、高橋。中学の時の後輩にバスケコートを借りたからって誘われてんだけど、行くか?」
オレは女は苦手だが、バスケなら得意だ。
180cmの身長と運動神経を活かして、笹中には負けない自信があった。
「あれ?笹中くんと高橋くんじゃない?すごい偶然!」
バスケコートの隣のエリアはバドミントンのエリアだった。
そこにアイツ、上野芽李が来ていた。
「前の職場の友だちがここの中学出身でね、きょうはたまたまバドミントンコートを借りれたから誘われたの」
笹中のヤツ、上野が来ていることに気づくと、あっさりバドミントンの方になだれ込んだ。
どうも上野のことが好きらしい。デレデレしやがって。
休憩がてらに自販機でスポーツドリンクを買っていると、上野が近づいてきた。
「高橋くんて、バスケうまいね」
せっかく褒められたのに、照れ隠しに笑うことくらいしかできないオレ。
情けねぇ。
ふと気づくと体育館閉館の音楽が流れてきた。
戸締りは笹中と後輩たちがやってくれるというので、先に帰ることにした。
「高橋くん」
後ろから追いかけてきた上野も同じ駅らしい。
一緒に歩くとオレの肩の高さに彼女の額が並ぶ。
「入社式のボールペンなんだけど」
「あ、上野のボールペン、オレが受け取って忘れてた。どっかにあるよ。探しとく」
それは嘘だった。
上野に話しかけるきっかけにしようとずっと持っていたのだが、今も会社の机の一番上の引き出しに入ったままだ。
「あ、良いの、そのまま持ってて。私も高橋くんのボールペンを持ってるんだけど、このまま持ってても良い?」
どういうことか意味を図りかねていると、彼女は顔を見上げるようにしてのぞき込んできた。
「今度さあ、食事に行かない? 2人で」
* * *
空いたグラスにウィスキーをつぎ足し、煙草に火をつけ溜息交じりの煙を吐き出した。
テーブルの上のボールペンを手に取り、ノックの音をカチカチさせた。
暮れの大掃除で引出しを整理しているときに、奥の方から出てきたのだ。
一度も使ったことはないのだが、煙草ケースに試し書きしてみると、インクは出なかった。
* * *
上野と5度目の食事をしたころ、オレは入社2年目で20歳を迎えた。
その食事のときに、飲みに行こうと誘われた。
なんとなく、決戦の時という気がした。
だが、オレは慣れていなかった。酒にも女にも。
オレはひどく緊張していた。
何をどうしたら良いのかまったくわからず、アイツをこの腕に抱いたまま、ひたすらこう言いつづけた。
「朝までただ、キスだけしていたい」
バーを出た後、アイツはオレの腕をとり、意外とボリュームのある胸を押し付けてきた時にはさんざん反応したのに、ホテルのベッドの上では、まったくダメだった。
そう、オレは童貞だったのだ。
オレの緊張が伝わったのか、アイツも緊張しているようだった。
とにかくオレらはベッドの上で、ただ抱き合ってキスをし、朝を迎えた。
自分のダメさ加減に凹むオレ。
翌日、どうやって帰ってきたのかさえ覚えていない。
その後、オレは仕事が忙しくなり、アイツと話す余裕がなくなった。
いや、仕事というのは口実だ。本当は気まずかったのだ。
そんなことはつゆ知らず、笹中はアイツと仲良く話をしていて、オレはそれをじれったいような、情けないような気持ちで見て見ぬふりをしていた。
「上野を食事に誘おうかな」
笹中がついに動いた。
オレは何も言えずにいた。
アイツと何回か食事に行き、ホテルにまで行ったことは笹中には言わないでいた。
なんとなく秘密にしておきたかった。
それが唯一、アイツを独占できる方法だと思ったからだ。
その晩、自分の気持ちをこらえきれず、アイツに連絡しようとして愕然とした。
オレはアイツの携帯番号はおろか、何もわかっていなかったということに気が付いた。
あの夜、ベッドの上で動揺し、動けなくなっていたアイツもまた、初めだったということも。
会社の連絡網で調べ、自宅の電話番号に電話してみた。
電話に出たのは父親だった。
焦るオレ。
咄嗟に、高い声で女のふりをした。
アイツから折り返しの電話はかかってこなかった。
結局、気まずいまま1ヶ月が経ち、オレは親会社の職場に派遣されることになった。
その最終日、遅くまで残業して帰ろうとしたときに、会社のすぐ外でアイツは待っていた。
クリスマスが近づく、北風が突き刺さるような夜だった。
「高橋くん、最近ずっと話せてなかったね」
乗ってきた自転車のサドルに手をかけ、アイツはうつむいていた。
「明日から、新しい職場だね」
オレが何を言っても言い訳にしかならないと思ったので、黙っていた。
「私ね、これ以上抑えられないの、自分の気持ちを。待つのは……もう無理」
「どうしてそうなるんだよ?」
「だって、私だけが辛いみたい。ずっと片思いみたいで」
こういうときに何を言ったら良いのか、そんなこともわからなかった。
オレの気持ちは伝わっていると思っていたからだ。
「もう、会うのはやめよう」
アイツは震える声でそう言い、自転車で走り去った。
次の瞬間、オレは体の力が抜け地面に頽れた。
胸ポケットからあのボールペンが落ちて、カラカラと冷たい音をたてた。
* * *
オレは残っていたマイルドセブンの最後の1本に火をつけた。
いまはメビウスだったな。
あの後、アイツは外資系の会社に転職したと笹中から聞いた。
オレはというと、何人もの女を抱きまくり、幸か不幸か今でも独身のまま明日で40になる。
ゴミ箱に伸びかけた手を止めて、煙草を入れていた胸ポケットにボールペンを入れた。
* * * END * * *
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