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自分で自分を必要とするとは

自分は生来とにかく打たれ弱いし、逃げ癖があるし、どうしようもない幼少期から青年期であった。

その続きで、やっぱりどうしようもない中年期を過ごしている今日この頃でもある。

かれこれ20年ほど伴走支援的にお世話になっている医師の勧めで、「精神修養になれば」と祝詞を修唱することを覚えて、20年ほど経つようだ。

何かしら神道に縁があるようではあるが、30代の半ばくらいまでは国粋主義者のように偏った考え方に浸ったり、祝詞を宣るのも特別なことの様に思っていたりもした。

40代に入ってからは、神道や祝詞へ対する自身の中のトクベツ感は薄れてゆき、生活の一部という感じである。昭和の時代くらいまでは、ほとんどの日本人は、祝詞でなくともお経などは毎日あげていたものだから、何ら特別なことではないぞと、ある時期気づけたのは本当によかったと振り返る。

最近になって話をする機会の多い仲間に対しても、自分が神道の考え方に興味があることや祝詞をのることなど日常会話的に話題にあがる。

先日、何の話の流れだったか、「古事記に星の神様は登場するのか」と問われ、「神道の先生の書物に、星だの北斗七星だのと書いたのがあったなぁ」
と記憶を遡るも、回答することはできず。

一体何年振りだろうと思いながら、その読み物を引っ張り出してみた。

確かに、星についての表記はあったが、説明がややこしいので割愛する。

久しぶりに読んだ文章に、思わず感銘を受けた。

「自分で自分を必要とする、ということの裏側は自分が吉を招くか凶を呼ぶか、ということに尽きるのである。「祓い清め」によって吉神を招くのが自他を幸わう道である。それには自己規制・自己抑制・自己解放・自己開発という「自助精神」が必要である。
「叩けよ、されば開かれん」という、自己における「岩戸開き」が必要である。」

この文章を初めて読んだのはもう覚えていないが、30歳のはじめくらいだった気がする。

頭では、なるほどと思いながら、あまりにも自己規制からは遠い自分であったため、自身にこの言葉を活かすことは全くできなかったし、そのように努力すらできない絶対的に落ちこぼれな自分を嘆いていた。

しかし、久しぶりに出会い直した文章に対して

「スモールステップでなら、自己規制チャレンジいけるかも」

と思える自分が居た。 

感銘を受けたのは文章そのものでなく、自身の受け止め方の変化に対してで、これが祝詞修唱の成果なのかどうかはわからないが、ずいぶん、自分、前向きになったではないかと。

多くの人が普通にやっていることができないどうしようもない中年という事実は変わりないのだが、、その、ちょっとでもステップを踏んでゆく努力をしようかと。

ひとつひとつ、できることから。。

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