見出し画像

「現実逃避」は存在しない

実家に引き篭もって映画やアニメを嗜む。
人生に路頭に迷いひとり遠くに出かける。
自分の情けなさを酒やたばこで誤魔化す。

人はそれを「現実逃避」と呼ぶ。
一般に、「現実逃避」と言うのは悪いニュアンスで捉われがちだ。

「現実」から「逃げている」。
それは、自分の人生になんの責任も持たず、ただ今の快楽を優先する幼稚な行為なのかもしれない。

私もそうだ。
就活について、社会について、資金について、人生について考えているとーそれはとてもじゃないが苦しい。不安で、前が見えなくて、ぎゅうっと胸が締め付けられるあの感覚。

だから、その苦しさを紛らわせるために、趣味であるアクアリウムや東京ディズニーリゾートについて熟考したり、興奮や感動を味わえるアニメや映画に浸ったり、ひたすら近所を何も考えず散歩したりしている。

私は正直言うと…そんな「現実逃避」ばかりの自分は嫌いだった。
周囲を見れば何か就活のために経験積んでますだとか、資格試験の勉強してますだとか、起業してバリバリやってますだとか…そういう「現実」に向き合っている者ばかりが視界に入ってきて、その度に私の精神を削ってくる。

そんなに言うならばお前も同じことやれば良いじゃんか、なんて言われるだろうけれど、私はそんなに強くない。前はもう少し頑張っていたけれど、ある時に精神の糸がプツンと切れてからは、自我を抑えて必死に努力する、なんてことが出来なくなった。


ある時、そんな悩みを恋人に打ち明けた。

「俺、現実逃避ばかりやっていて、ほんとそんな自分が情けなくて苦しいんだよね…」

『現実逃避って?』

「例えばアクアリウムやったりさ、東京ディズニーリゾートに関するnote記事を作ったりさ…」

『それって現実逃避なの?』

「どういうこと?」

それをやっている時間も、紛れもない"現実"なんじゃないの?
…"現実逃避"って、何?

彼女と話すと、時にとんでもない気付きを得られることがある。


彼女の言いたいことはこうだ。
「現実」とは今生きているこの瞬間であり、実在しているものを指す。
私たちが普段「現実逃避」と呼んでいる趣味だとかアニメだって、それは実際の時間軸・人生の中で私たちが経験しているものであり、紛れもない「現実」なのである。

従って、「現実」から「逃れる」ことは出来ない。
つまるところ、「現実逃避」なんか端から存在しないのである。

このことが私たちにもたらしてくれる学びはこうだ。
まず第一に、「現実逃避している」と言って自分や他人を非難することは出来ない。

それがどんな使い方であれ、人生の実際の時間を消費していることに代わりはないのだから、そこに「現実逃避」という言葉を当てて非難をする必要性はない。

ただこれは同時に、私たちはどう頑張っても「現実」から逃げることは出来ないことを意味する。
人生というゲームのプレイヤーの役割から逃れることは、(自死を除けば)出来ないのである。

だから、「現実」に向き合うか逃げるか、という二極化した問題として人生を捉えるのではなく、「現実」をどう生きるか、というオープンな姿勢で人生に臨めば、少しは生きやすくなるのではないだろうか。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?