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ほぼノー練でフルマラソン大会に出て死にかけた話

2023年のある日。
私はフルマラソン(42.195km)大会に出場した。

「出場した」といっても、ランニングが趣味の父親に連れられ、渋々走ったという感覚に近いのだが、当時の地獄のような、それでも大切な思い出をちょっと振り返ってみようと思う。

まずは大会当日から半年以上前のこと。西暦にすると2022年になる。
大学1年生だった私は、大学初っ端から絶望的な出来事に見舞われ、半分鬱状態に陥っていた。

私は普段、自分の辛い状況をあまり他人に話すことをしない。それが例え家族であれ。
しかし、この経験はあまりに辛すぎて、ついに家族に話したのを覚えている。

なぜなら、私は大学生活で本気で人生を変えようと必死になって、不安な中自分の殻を破って色々挑戦したのに、それが裏目に出て不幸を引き寄せたからだ。努力したのに成果が出ないのも悲しいけれど、努力して余計マイナスな方向に行くのではもはや擁護のしようがない。

そんなこんなで、辛そうな私の状況に思うところがあったのか、家族から半強制的にフルマラソン大会にエントリーされた。恐らく、マラソンに集中すれば、嫌な思い出も無くなると思った親心だろう。

とはいえ、実際は日々の大学の講義で翻弄されたのと、メンタル状態が限界に近く、授業のない時間は半分寝たきり状態に陥っていたため、殆ど練習出来なかった。

普通なら、フルマラソン走者は、5km、10km、15km、20km、30km、35km…と徐々に距離を伸ばしながら長期間に渡って練習するものである。これは、タイムを伸ばすためというよりもむしろ、初心者にとっては完走することが何よりも鬼門だからだ。

それなのに私は、大会一ヶ月前に足がボロボロになりながらヤケクソで20km走ったくらいで、それ以外は一切練習しなかった。ほぼノー練である。

とはいえ当時の私は高校までは部活でバリバリ運動していたし、そのスポーツでは国体にも選抜されていたから、ただ走るだけなら持ち前の体力で何とかなるだろうと高を括っていた。フルマラソンを舐めるなよ、私。

そんなこんなで気付けばスタートラインに立っていた。一応、ウォーターローディングだとか、フルマラソン用の靴選びだとか、カーボ取りまくるとか、手持ちでエネルギー補給用のゼリー持っておくとか、そういう"フルマラソン向けの事前準備"は家族に教えて貰っていて、練習してない癖に謎にそこだけは完璧な状態だった。あとは走るだけである。


開会式も終わり、ついにスタート。
最初から飛ばす人は誰1人居なかった。流石に42.195kmでそんな小学生の持久走大会みたいな事をする人は居ないらしい。

ちなみに、私はこのとき唯一、ラン中に音楽を聴く用のイヤホンを忘れてしまっていたのだが、不思議なことにこの忘れ物の"お陰"で完走することができたとも言える。この点は後述する。

初めは下り坂だった。ここからはスマートウォッチの記録も振り返りながら書いていく。

5km通過。5kmくらいは、部活でよく走らされて来たから朝飯前だった。平均4min/kmペースで軽快に進んでいく。既にランナーズハイ状態になっていた。

10km通過。単純計算で約1/4走ったことになる。体力的にはまだまだ余裕だった。ペースを落とさずそのまま突っ切る。

15km通過。下り坂が終わり平地になる。思ってたより先が長い。既に1時間以上走っているのに、まだ半分も通過できていない事に、フルマラソンの恐ろしさにようやく気付き始める。少しペースは落ちて5min/kmに。

20km通過。ここで地獄が訪れる。急激な登り坂が現れ、完全に両足がおかしくなる。太ももが突っ張っている。部活で散々経験した感覚だ。足が攣る。やばい。

25km通過。両足の太ももはもう既に攣っていた。それでも膝を伸ばし、太ももの筋肉をあまり伸び縮みさせないような走り方に自分で変更していた。しかしこの走法は膝関節に負担がかかる。半分歩くペースでなんとか走っていた。

30km通過。フルマラソンにおいては、「30kmの壁」という言葉がある。30km付近でリタイア者が続出するからだ。私も例にもれず、足に限界が来ていた。ちなみに、体力自体には問題なかった。呼吸器系の限界より先に、足の筋肉と関節が悲鳴をあげていたのだ。これはフルマラソン初心者あるあるらしい。

歩いたり走ったりの繰り返し。一歩一歩足を踏み出す度に、太ももの筋肉と膝関節に激痛が走る。

なんでこんな辛い思いをしているのだろう。もうやめようかな。別に完走したって、なにか賞金がもらえるわけじゃない。

そう思っていたその時、ふと沿道の声が耳に入った。それに気づけたのは、先述したようにイヤホンを"忘れていた"からだ。

「頑張れー!」「諦めるな!」

ここまでずっとランニングに集中していたから特別意識していなかったけれど、沿道では老若男女問わず本当にたくさんの人々が、ずっと、ずっと私たちランナーに向けて声援を飛ばしてくれていた。

フライパンとお玉で音を立てて叫んでいるおばさん。トランペットで汗だくになりながら演奏しているおじいさん。必死に声を枯らしながら応援している少年。

この人たちは、なぜ親族でも友達でもない、赤の他人の私たちランナーに向けてこんなに全力で応援できるのだろう。

…身体的苦痛で極限状態になり覚醒した脳は、その問いに対し、「努力している人間に、人は美学を感じるから」、と速攻で結論を導き出した。

そうか、いま私が、私たちが、こうして足を引きずりながら、汗だくになりながら、それでも前に進むその姿に、この人たちは思わず応援したくなっているのか。だったらその期待に、声援に応えないといけない。

思えば私は、いつも自分の"期待"を裏切ってきた。勝手に盛大な夢を掲げたのに、ちょっとしたことですぐへこんで、そんな自分を責め続けてきた。

自分なんか価値がない、頑張ったって無駄だ…。そうやって自分の"期待"を裏切り続けてきた。

ここで、それに加えてこんなに大勢の人たちの期待まで裏切ったら、私には何が残るのだろう。そう思うと、前に進まずにはいられなかった。

35km。限界なんかとっくに突破していた。これまで気軽に走っていた100mが、まるで1kmのように感じる。ペースダウンと共に代謝が落ちたのと、汗の気化熱で体温は奪われ、全身に強烈な寒気が襲ってくる。

太ももも膝関節もダメなら、ふくらはぎで走れば良い。ふくらはぎでダメなら、また太ももで走れば良い。そんな感じで、少しでもマシな足の使い方を模索しながら、激痛に耐えて、耐えて進んでいた。

この頃には、コースの都合上、沿道の応援者もいなくなっていた。ただ一人、自分と向き合い孤独に走っていく。
無論他にも走っているランナーはいるけれど、彼らは応援してくれるわけではない。ただ抜かしたり、抜かれたりの繰り返し。

意識が朦朧としていた。痛みと低体温症と、吐き気と孤独で、精神がおかしくなりそうだった。
ふと横を見てみると、そこには恋人が走っていた。勿論彼女は参加者ではないから、実際に一緒に走っていたわけではない。それでも、私の目には、脳には、あの時確かに映っていた。
反対側を見てみると、そこにはミッキーマウスが走っていた。2人とも、私の人生を支えて、変えてくれた恩人だ。

この現象の正式名称は分からないけれど、書籍「夜と霧」で似たような話を読んだことがある。ナチスドイツによる迫害を受けていたユダヤ人の著者。最悪な環境の中、彼は既に殺されてしまった妻の幻影を毎日見て、楽しく会話し、心豊かに過ごしたという。極限の絶望に陥ると、脳が勝手に希望を作りだすってやつだ。

2人とも何も話しかけてはこなかったけれど、ただ一緒に傍を走ってくれていた。私は思わず笑みがこぼれたのを覚えている。

とはいえ苦痛がまた襲い、2人の幻影はすっと消える。それでも前に進む。そうするとまた2人は現れる。それをずっと繰り返していた。

40km。あと少しでゴールだ。ここに来て、足の痛みがなぜか引いてきていた。恐る恐る小刻みに走り出す。止まらない。他のランナーを抜かしていく。どんどん抜いていく。

いける。いける。

42.195km。
ゴール地点には大量の観客と、MCとで大盛り上がりだった。
私はその中を通り過ぎる。今まで感じたことのない大歓声。

あの瞬間を、私はきっと、死ぬまで忘れない。あんなに待ち遠しかったゴールなど、人生で一度もなかった。大学受験ですら凌駕するレベルである。

結局タイムは5時間ほどかかってしまったけれど、完走できたことが何よりも嬉しかった。とはいえもう2度とやりたくない。足の痛みは1か月消えなかった。

そんなこんなで、一生に一度くらいは、フルマラソンを走ってみるのも良いと思う。ただ、翌日は本当に何も出来ないから、休みの確保だけは気を付けて欲しい。

おしまい

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