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趣味は、"にわか"の頃が一番楽しかったという仮説

あなたは何か、自身を「オタク」と自称できるような趣味はあるだろうか?

アニメ、ゲーム、アイドル、ジャニーズ、鉄道、ペット、ディズニー、カメラ、旅行、筋トレ…。

答えがすぐ浮かぶような人は、恐らく少なくない時間とお金をそれに費やしてきているだろうし、熱量や知識量などでプライドを持っているだろう。

しかし…私は趣味に関して、ちょっとした仮説を持っている。
それは、「にわか」であった頃の方が、今よりも趣味を楽しめていた、という仮説である。言い換えれば、趣味はハマればハマるほど、楽しさが無くなっていく、ということになる。

そう思う根拠は幾つかある。本題に入ろう。

趣味の複雑化

趣味はハマればハマるほど、内容が複雑化する。
例えば、ゲームを本気でやろうと思うと、ただストーリーを楽しむのではなく、効率の良い進め方や技術、雑学などを研究するようになるだろう。

突き詰めれば突き詰めるほど、求められる能力は増し、またその界隈内で周囲との競争を明確に意識するようになる。
ただの趣味だったものがいつの間にか、仕事のような感覚で取り組んでしまっているなんてことはザラにある。

界隈の変化

今のご時世、不変の業界はほぼ存在しない。
グローバル化に伴う超競争社会に対応するように、趣味としている界隈も大きく方針を変更することがある。

自分がその趣味にハマった"理由"も、長年界隈に所属していると変化したり、失われたりすることは多い。

例えば鉄道オタクが、夜行列車が好きでその界隈に足を踏み入れたのに、肝心の夜行列車が日に日に本数を減らしつまらなくなったというのはよく聞く話である。

社会からの逸脱

趣味を極めた先にあるものは、社会からの逸脱という悲しい結果に終わることも多い。

上手くマネタイズしたり、同調性を維持する努力をしたりすれば何とかなるが、ただただ趣味に熱中すると、独自路線を貫きすぎて社会からの理解を得られることが出来ず孤立する可能性が高まる。

メタ的な捉え方

趣味を極めると、メタ的な捉え方になることがある。
趣味に没頭するのではなく、なぜこの趣味は人を没頭させるのだろう?という視点に移行する。

これは必ずしも趣味のつまらなさを助長するとは思わないが、少なくとも冒頭で話した趣味の複雑化に寄与することは間違いない。

高まる期待値と、報われない現実

趣味を極めると、何か界隈の他の人たちとは違う事を成し遂げられるのではないか、という期待を抱くようになる。

よくあるのは、趣味を受容する側から、提供する側へのシフト。
自分の数多もの趣味経験が、きっとその界隈で実を結ぶだろうという期待を抱くこと自体は、何も変な事ではない。

しかし、実際には受容する側と提供する側とは全くもって別世界であり、そもそもその役割に就けなかったり、就けたとしても全く活躍できなかったりすることが多い。

その報われない現実が、趣味を突き進む道自体への疑念を抱くようになる。


という訳で、趣味は「にわか」の頃の方が楽しかったのかもしれない理由をつらつらと述べてみた。

とはいえ、趣味と言うのは楽しむことだけが目的ではない。
時には苦労をし、絶望に見舞われながら、様々な経験を通して人間的に成長することだって、立派な「趣味をやる理由」にはなり得る。

個人的な考えだが、本命の趣味とは別に「にわか」の趣味を持つことをオススメする。

あくまで一例として、私はディズニーやアクアリウムに趣味の本腰を置いているけれど、アニメや映画、筋トレ、読書など、人に誇れるほどでもないがそれなりに取り組んでいる"にわか"の趣味がいくつかある。

こうした趣味は、例え本命の趣味で事故が起きても、精神のセーフティーネットとして機能してくれる。依存先はどんどん増やしちゃおう。

おしまい

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