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[Dオタが読む]ディズニーランドの社会学 脱ディズニー化するTDR (新井 克弥 著)

本著は私が大学図書館にリクエストして取り寄せてもらった本である。大学生というのは良いご身分だ。学習という大義名分さえあれば、いい年した大人が自分のために尽力してくれる。本著はリクエストしてからわずか数日で手元に届けてくれた。仕事の速さに脱帽する。

本題に入るが、本著は題名に「ディズニーランド」という一見親しみやすそうな言葉が入っているものの、内容はなかなかにハードで、読破に苦戦した。しかしながらそのボリュームの分だけ、東京ディズニーリゾートを深く理解できる相当の良書であった。ディズニーに興味がある人はもちろん、特にDオタと呼ばれる人たちには是非読んでほしい。

この記事では、本書の要約を軽くしつつ、個人的な感想を述べていくものにしていきたい。ディズニーファンが読むことを前提に作成しているため、TDRに疎い人は少々置き去りになってしまうことを先に注記しておく。

<問題提起>

著者、新井克弥氏(以下、新井氏)は、東京ディズニーランド(TDL)開園当初からパークに足を踏み入れている言わば古参である。しかし、東京ディズニーリゾート(TDR)が歴史を歩んでいくうちに、新井氏は違和感を覚える。それは、TDRが、ディズニーランドの生みの親であるはずのウォルト・ディズニーの理念からどんどん離れていっていること。この本では、その現状の成り行きをメディア論的視点で考察されている。
(ただし、本著はただTDRについてあれこれ述べるだけではなく、TDRを踏まえた社会全体に対して考察を広げており、またあくまで古参として思うこと、ではなくニュートラルな立場で論じていることに注意)


…さて、私がTDR界隈に本格的に足を踏み入れたのは2018年である。そのため、新井氏の疑問に対し実体験を基に深く共感することは難しいのかもしれない。しかしながら、とりわけジャンボリミッキーやピクサープレイタイムによる世界観やBGSの崩壊くらいは流石に感じてはいる。とりあえず読み進めよう。

<本来のディズニーランド>

ウォルト・ディズニーが自身の理念のもと、ディズニーランドに落とし込んだコンセプト・経営方針は、「ファミリー・エンターテインメント」、「テーマパーク」、「永遠に完成しない遊園地」、従業員向けには「劇場シミュレーション型の運営」、「SCSE」にまとめられる。ここでは、変容するTDRを論じるにあたり核となる「ファミリー・エンターテインメント」「テーマパーク」を詳細に整理する。

ファミリー・エンターテインメント」とは、簡単に言えば、「子どもも大人も楽しめる遊園地」、という言葉に集約される。。一般的な遊園地は、主に子ども向けに作られており、いわば子ども騙しののようなものであるが、ディズニーランドは家族みんなが楽しめるように作られている。言い換えれば、「大人だまし」の遊園地である。

テーマパーク」とは、「一定環境を国や歴史、物語といった統一テーマに基づいて構築したレジャー施設」のことを指す。そして、この概念を支える二つの柱が、「ジャンル」と「物語」になる。

「ジャンル」とは、各テーマランド/ポートのテーマ様式のことで、例えばトゥモローランドなら「未来の国」、メディテレーニアンハーバーなら「地中海に面した古き良き港町」といった所か。ディズニーランドはジャンルに沿って、アトラクションやレストランなどといった大きなものから、ごみ箱やトイレのデザインなどといった小さなものまで、徹底的に統一しテーマ性を維持している。

「物語」とは、いわゆるBGS(バックグラウンドストーリー)のことで…これはディズニーファンの皆さんなら説明不要であろう。

ディズニーランドにおいては、この「ジャンル」に沿う要素を配置し、そこに「物語」を付与することで、ゲストに強いテーマ性を提供している。

ウォルト・ディズニーの没後、1983年に開園された東京ディズニーランドも、例に漏れずウォルトの遺志を継ぎ、「ファミリー・エンターテインメント」「テーマパーク」の理念を基に作られた。…のだが…

<変わりゆくTDR>

TDLを訪れるゲストを見てみると、いつの間にか本来メイン層であるはずの家族連れは少なくなり、代わりにディズニーコーデを身に纏う大人や、特定のコンテンツ目当てで訪れる「Dヲタ」と呼ばれる人たちがパーク内を闊歩するようになった。このことは、公式の年代別来園比率でも成人の割合が圧倒的に高く、データ上でも明らかになっている。

さらに、TDLとは別に、ディズニーの理念を取り入れながら、より異国情緒を高めることで「大人向けディズニー」という位置付けで開園したはずの東京ディズニーシー(TDS)ですら、そのコンセプトが崩壊しつつある。代表的なものとしては、ダッフィー&フレンズの浸食による「大人向け」要素の喪失Dヲタ独自のマナー違反とも取れる文化による「ファミリー・エンターテインメント」要素の崩壊が挙げられる。

Dヲタであろうが、ディズニーコーデを嗜む者であろうが、TDRを訪れる「大人たち」は、明確な目的の達成のためにパークを訪れ、まるで狩猟のようにコンテンツを消費する。その有様は、ファミリー層が和気あいあいと語らい、楽しみあうという「ファミリー・エンターテインメント」の理念とはかけ離れたものであるといえよう。

このようなウォルトの理念を軽視する変化は、先述したゲスト側に限らず、運営側にも見られる。BGSを軽視したレストランのオープンなど、「テーマパーク」をはじめとするディズニーの理念に基づいていたかつてのパークは変容し、「脱ディズニー化」が着々と進行しつつある。


さて、本書では後に脱ディズニー化についてディズニー史や社会全体の動きを絡めて考察されているが、本記事ではTDRの現在付近と未来について語っていきたいので、割愛する。めちゃくちゃ長くなるし。
こちらも非常に興味深いので、是非本書を手にしてほしい。


…少々Dオタにとってはギクッとくる話ではないだろうか。実際、私はDオタとして東京ディズニーリゾートを訪れる立場ではあるものの、正直Dオタがいないパークと言おうか、Dオタを特別意識しないパークの方が、功利主義的にゲストのテーマパーク体験価値は向上するのだろうなと薄々感じてはいる。

「初心者向けディズニーデート攻略法」の記事でも話したが、Dオタが好むコンテンツが偏りすぎてて、パーク内でゲストの分断化が生じている。アトラクションは一般客、ショーパレやグリーティングはDオタといった具合に。Dオタは幾らでも行けるから良い。ただ一般客はどうだろうか。
遠方なら尚更、東京ディズニーリゾートは滅多に行けるところではない。であるのに、コンテンツの選択の幅は我々Dオタが狭くしてしまっている。
とはいえ私はDオタを責めるつもりも、Dオタとして反省するつもりも毛頭ない。それでも、やはりパーク内の分断化には少々思うところはある。

ただ近年の年パスの休止や、DPAの導入はある意味この分断化を解消する機能を担っているのかもしれない。少々資本主義的ではあるものの、実際それは社会の常ではある。とりわけこれまで年パスで気軽に通い、良ポジで地蔵を幾らでもしていたDオタ達にとっては非常に評判が悪いが。

例えばコロナ禍のパークは、Dオタにとっては地獄そのものであったが、一般ゲストという視点でみると非常に体験価値が高かったと今でも思う。ショーパレもグリも空きまくっていた。30分前でスプーキー"BOO!"パレードの最前を取れる快適さは素晴らしかった。「素晴らしい」というのはDオタとしていつもより少ない時間で観れた、という意味ではなくて、家族連れや修学旅行生などが気軽に観れるコンテンツになっていたからだ。今ではどうだ。開園後5分で最前が埋まる始末である(無論、コロナ禍ではそもそも入園者数が制限されていたことや、ショーパレの質が人員不足で低下していたことを考慮する必要はあるものの)。

<TDRの、これから>

さて、本書で述べられているTDRの脱ディズニー化は、これからもますます進行していくことはなんとなく予想がつくだろう。ファンタジースプリングスなんかが良い例だ。東京ディズニーシーにわざわざくっつけるテーマ性も感じないし、入場口を複数作るという禁忌(?)まで犯している。

それでは、ディズニーの理念をDオタのために崩壊させているのかというと、そうでもないように思われる。先述したDPAの導入や年パスをなかなか復活させない所をみると、どうもDオタを特別意識しているわけではないだろう。
そうなると恐らくDオタではなく、広くリピーターを意識しているのだろうか。「ディズニー」が好きな広い層に刺さるコンテンツを生み出していく。そのためには本書で書かれている「カオス化」が進行するのはやむを得ないだろう。Dオタ達がOLCの発表一つ一つに一喜一憂しているところからも、OLCはコンテンツをありとあらゆる層向けに、乱れ打ちしているような印象を感じる。

何はともあれ、私はディズニーを見守ることにする。これからも、テーマパークを牽引する存在であることには変わりはないだろうし、実際パークに行けば体験価値と同時に、何かしらの学びを私に与えてくれる。

これまで長々とお読みになられた皆さん、どうもありがとうございました。

おわり




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