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週報03|テクニカル街歩き / 忙しさに戸惑う / 矜持と断捨離

240115ー240121

京島共同凸工所で1日がかりのワークショップを実施した。去年も数時間単位の企画は行ったが、10人の参加者と半日かけて街を練り歩き、ラボの環境もうまく使って、楽しい時間を過ごせたのではないかと思う。そういえば、前職や大学院生時代にも、街歩きのようなイベントをしていたな。IoT機器を身につけて文字が読めるか確かめたり、避難訓練を歩数と一緒に実験したり。技術と散歩の組み合わせが好きなのかもしれない。

年明けからラボが賑やかだ。どの営業日も予約や飛び入りで人が訪れ、機材を使ったり教えたり教えられたりが重なっていく。どうやらDMM.make AKIBAの閉鎖で行き場を探している人たちがいるようだ。利用者が増えるのはありがたいことだが、内心そこまで準備ができていないというか、週末ゆっくりぐらいの想定だったので、結構戸惑っている。ビジネスをするぞ!で始めたのではなく、良き具合に流れ着いた場所で、良き具合に暮らすための手段だったというか。生半可なことを言っている自覚はあるのだが、いい落とし所を見つけたい。多分、ここにも一人でやることの限界が横たわっている。

対照的に、ライターとしての業務は取材や編集を除くと、一人で黙々と進める時間が長い。自分の時間単価を見積もって、これくらいのペースで仕上げるためにはなどと考え、作業時間をこまめに記録するようにした。toggleはタスクの仕分けが億劫になったのでやめ、今はアプリでポモドーロを動かし言われるがままに進めている。当たり前なのだが、マジで一人で机に向かっているだけの日もあって、そういときには「仕事をしたな」という感覚だけが残る。出納帳を見ながら安心したりドキドキしたりの後、何か生活の破片が欲しくなって再びジャムを煮るなどした。

京島が出てくる漫画『兄、帰る』を読んだ。15年以上前に書かれた漫画の中でさえ「東京にこんなところが残っていたのね」と書かれている。シンプルなタッチの絵でも、細い路地と密集した建物、手仕事の痕が残る壁から雰囲気が伝わってきた。漫画の中で絵が描かれる兄は、失踪した父の穴を埋めるために映画監督の夢を諦め就職し、家族を食わせていた人物。勤め先で婚約者もできるが、苦労してきた身だとか、夢を諦めただとかいう視線に我慢ならなくなる。他人に幸せや不幸せを規定されることの不愉快さ、幸せでないとみられることへの抵抗。大義がないと何かを成してはいけないのか、ほどほどに幸せでいることはできないのか。俺は俺で自分の暮らしを楽しんでいるのだと、胸を張って暮らしていきたいものだけど。

配信が始まった「ブラッシュアップライフ」を見始めた。放送期間中、友人の家でよくわからないまま最終回を見た記憶がある。自分のワンアクションで人の人生を左右してしまう可能性、構わなければ構わないで進むはずなのだが、どうにも関与してしまう。大学時代、発表会や学内のイベントで後輩と話し、それがきっかけで同じゼミに入りましたと言われたことがある。その選択はいい方向に転がったのか、別の素晴らしい道もあったのではないかと、正直なところドキッとしてしまう。とはいえ、最終的に選択をしたのは彼ら自身なのだから、その決断を侮ってはいけないよなとも思う。結局、僕は自分のやっていることに人を巻き込むことへの遠慮というか、控えめというか、どこまでも自信がないのだよな。

休みの日、引っ越してから開封さえしていなかった本の段ボールを開け、怒涛の勢いで整頓した。働き者ラジオでバリューブックスのキャンペーンを聴き、これは今売るしかないという消費者的アクション。取材インプット用の新書や思い入れのない雑誌、意欲だけが先走った学術書などを売るための箱に詰める。いつかやるだろう、の時期は過ぎ去った。あっけなく箱を移せるくらいには、学生時代からの時が流れたのだと思う。

同じ日の夕方、電車に乗るほどではないが、近場では休まらないと自転車を走らせると、気付いたら前の家の近くにいた。3年半ほど過ごした場所で、しっかり人生の一ページとして愛着が湧いていたらしい。お久しぶりです、と声をかけるほどの関係はない肉屋でメンチとクリームコロッケを食べ、アメ横に自転車を置き、喫茶店で『雑に作る』を読み切った。著者の3人が技術・マインド・処世術を次々と語りかけてくる、本当に実用的な良書。頭でっかちにならずに手を動かすことで前に進む。自分が歩んできた道、今いる場所が、かしこまりすぎて足を鈍くはしていないだろうか。プライドといえば大仰だが、いらん意識がまとわりついているような気もする。

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