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身体の代わりに遺すもの

この度noteを始めました。
浅埜マリ、と名乗っています。

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始めたきっかけは、岸田奈美さんのこのnote。

なるほど、と思った。

文字を読むのも書くのも好きな人生だ。
何かを遺すなら言葉がいい。

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常に何か書いてはいる。

最も愛するTwitterは10年選手、いまや脳内常時接続と言ってもいい。

脳のリソースを食わせるのはもったいないネガティブな感情、可視化したいポジティブな感情や気づき、顕示欲、承認欲求。

一瞬くらいは逡巡するが、気づいたらポチっと放流している。なんという解放感。

海外生活・妊娠・育児すべてにおいて、この情報の流れにどれだけ助けられたことか。

清濁構わず流し続けて今に至る。
呟きを集めたら濃すぎる私が出来上がるだろう。
それは私であって私でない。
故に、ドブさらいするのはどうか勘弁願いたい。

親愛なるフォロワー各位におかれましては、信頼するその判断力で、良しとしたものだけをすくい上げていただければと思っている。

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そんなわけで、Twitterは鍵垢のまま葬ろう。

かと言って、今更4年も放置しているamebloを再開する気にもなれなかった。
今でも時々ameblo仲間さんの記事は見に行くが、自分のブログは書き切った感もあって遠のいている。

でも、改めて遺すならあんなものがいいんじゃないか、と思った。

世に出しても支障のない言葉を。
それでいて、親しい人には伝わる想いを。

何より、愛する夫と子どもたちに、
私という人間が何を思って生きていたか、共に暮らすだけでは伝えきれない知り得ないことを。

文章修行も兼ねて。

おかーさん案外しょーもないね、と思ってくれたら万々歳だ。

そんなことを綴っていこうと思っている。

#遺言 #エッセイ

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